三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『ダーティハリー』2

2011年12月15日 | 映画

佐藤忠男の映画評論によって私はものの見方、考え方を教えられた。
しかし、普通、映画館までわざわざ足を運ぶのは、映画を見ている間だけでも現実を忘れて楽しみたい
からで、難しいことを考えるためではない。

たとえばドン・シーゲルが監督した『燃える平原児』(エルビス・プレスリー主演で、プレスリーの役はインディアンとの混血)という映画である。
佐藤忠男『現代世界映画』によると、『燃える平原児』は悪役であるインティアンにも言い分はあるという話らしい。
「このドラマで悪いのは白人の側なのである。しかし、白人たちがいろいろインデアンに意地悪をするからといって、インデアンが蜂起して白人を皆殺しにするのはもっと大きな悪である、という論法なのである。どっちも悪いのだから、仕方ない、ひとまず秩序を回復するために、より大暴れするほうをやっつける、というのである。この論法は、後進国における革命を抑圧するアメリカのタカ派の論法とそっくり重なり合う。アメリカのタカ派といえども、一九六〇年ともなればもう、後進国の革命は一方的にアカのせいだ、とも言えない。革命派が革命を起こすには、支配者の側にも非はあるだろう、ぐらいのことは言う。しかし、支配者の一部に非があるにしても、それを武力でくつがえすのは断固おさえなければならぬ。彼らは民主的な方法でそれを主張すべきであったというのである」

主役=善玉ではなく、悪玉に同情すべき点があるとしたら、見ててスカッとしない。
「この種の爽快さは、強い者が弱い者をがっちり支配することが正義だという大前提のもとに成り立っており、正義の名のもとに強い者が弱い者をとことんやっつけてゆくことぐらい痛快なことはないという感覚のうえに成り立っている。こういう感覚の下にあっては、弱い者は、とことんやっつけられるにふさわしいほど邪悪であってくれなければ困るのである。弱い者の反抗のほうが正義かもしれない、などという『燃える平原児』のような疑問がちょっとでも出てくると困るのである。タカ派心情というもののエッセンスがそこにある」

そういえば、イラクやリビアが欧米に攻撃された際、新聞はフセイン大統領やカダフィ大佐を人権弾圧する「邪悪」な独裁者としか書いていなかったように思う。
彼らがいいとは言わないが、それでも言い分があるはずだし、欧米が人民の解放者だとは信じていないのではないか。
欧米は「正義」よりも、石油ほしさにやってるだけだし、国民のことは考えているとは思えないのだけど。

宇田川幸洋は『アメリカ映画200』で、ドン・シーゲル『ダーティハリー』について「シーゲルは〝さそり座〟にパラシュート隊の編み上げ靴をはかせ、ヴェトナム帰りを暗示した」と指摘している。
ケネディ大統領を狙撃したオズワルドは海兵隊出身。
犯人の〝さそり座〟も狙撃の名手である。
視点を変えて犯人の立場から描いたら、ベトナム帰還兵が戦争後遺症でおかしくなり、次々と犯罪を繰り返すという悲劇になる。
あるいは、ベトナム帰りのハリーは、犯人もベトナム帰還兵だということを知り、共感を覚えてしまうとか。
もちろん『ダーティハリー』はそういう作りにはなっていない。

『ダーティハリー』とベトナム戦争について、佐藤忠男はこのように深読みする。
「この『ダーティー・ハリー』のヒーローの考え方は、そのまま、ベトナム戦争におけるアメリカのタカ派の論理や心情に重なることは言うまでもない。ベトコンや北ベトナムは卑劣で悪智恵に富んでいる殺人者であり、どこかに身をかくしてはテロ活動をする。こんな連中はひねりつぶしてしまうべきなのだが、アメリカとしてはさまざまな国際的な制約があって積極的に行動できない。その制約のほうが間違っていると思うが、民主主義というタテマエもあって、その制約を簡単にどうこうするというわけにもゆかない。まあそのことは仕方ない。しかし、それなら、誰か、ダーティ・ハリーのような勇敢な奴がいて、少しぐらい違法をしてもいいから、独断専行して早いとこ征伐してしまってくれないか。それが人間性の自然な発露であるかぎり、少々の違法はかまやしないよ」
見えないところから狙撃しては逃げる犯人はベトコンを暗示しているわけである。
現在の観客にはイスラムテロを想起させるかもしれない。

ダーティハリー的人物待望論は日本でもあると思う。
小泉政権や民主党が衆議院で圧勝し、橋下維新が急成長したのは、現代社会の閉塞感を「少しぐらい違法をしてもいいから、独断専行して早いとこ征伐してしまってくれないか」という期待からだとしたら、ちょっと恐い。

コメント
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