三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

南京事件 5

2009年11月05日 | 戦争

笠原十九司『南京事件論争史』によると、南京事件否定論は東京裁判の最終弁論で弁護側が提出した付属書「南京事件に関する検察側証拠に対する弁駁書」にすでに登場している。
①伝聞証拠説 証人は直接現場を目撃していない
②中国兵、中国人犯行説 中国軍も殺人、略奪、放火、強姦をしている
③便衣兵潜伏説 中国兵は民間服を着て潜伏していた
④埋葬資料うさんくさい説 埋葬資料の中には戦死した兵士の死体も含まれている
⑤南京人口20万人説 日本軍が攻撃する直前の南京の人口は20万人だった
⑥戦争につきもの説 戦争ではどこでも発生している
⑦略奪ではなく徴発・調達説 日本軍は代価を支払って徴発・調達した
⑧大量強姦否定説 若干の強姦はあったが、組織的な大量強姦はなかった
⑨中国の宣伝謀略説 中国の宣伝外交である
⑩中国とアメリカの情報戦略説 中国びいきの欧米人が中国のお先棒を担ぎ、アメリカもそれに与して日本批判をした

これらは現在でも南京事件否定の根拠としてくり返し使われているそうだ。

否定派の本全般について笠原十九司氏は「資料の根拠、裏付けなしに自分の推測だけで否定する」
「否定できないものは無視する」と否定派を批判しているが、そこらは南京事件否定派は超常現象肯定派と似てるように思う。
たとえば、東中野修道氏は大虐殺派が根拠にしている史料や証言に「一点の不明瞭さも不合理さもないと確認されないかぎり、(南京虐殺があった)と言えなくなる」、つまり「(南京虐殺はなかった)という間接的ながらも唯一の証明方法になる」としているそうだ。
たとえば証拠写真とされるものがニセ写真だということになれば、南京で虐殺はなかった証明になるという理屈である。
この論理はおかしいわけで、「カラスは黒い」という命題を否定するためには、白いカラスを一匹でも見つければいい。
南京事件の場合、100枚の証拠写真のうち99枚がニセ写真であっても、1枚が本当の証拠写真だったら、南京虐殺があったと証明することになる。

笠原十九司『南京事件論争史』を読んで感心するのは、史実派の人たちがそんな南京大虐殺否定派の本(手を換え品を変え、だけど同じことのくり返し)ををきちんと批判していること。
ここがおかしいと指摘するのは手間暇のかかる面倒な作業であるが、それを史実派の人たちはしているわけである。
たとえば「ゆう」という人の「南京事件-日中戦争 小さな資料集」というサイトでは、東中野修道『南京虐殺の徹底検証』のどこが間違いか、一つ一つ元の資料にあたって検証している。
そして、ゆう氏は「東中野氏のこの本は、捻じ曲げ引用、勝手な解釈、対立データの無視、一方的な記述―「禁止事項」のオンパレードでした」と言っている。

なぜ否定本批判をするかというと、笠原十九司氏によると「公刊される否定説本に批判を加えないと、「南京大虐殺派が否定できないのは事実と認めたからである」ということになり、否定派の「ウソ」が罷りとおることが懸念されたからである」
しかし、南京虐殺否定派は主張が論破されて反論ができなくなると、論点をずらして新たな否定論を展開する。
その新たな論点を批判しないと、批判できないからだ、こちらの主張を認めたと宣伝するので、そこでやむなくまた批判する。
そしたら別の人が同じ主張を言い出すetc、というモグラ叩き。
なんだか超常現象肯定派と懐疑派の論争みたいである。

笠原十九司氏は「否定派はすでに破綻した否定論の繰りかえしと、新たな否定論の「創作」という二つの方法で、否定本を多量に発行しつづけているので、世間一般は「南京事件論争」は決着がつかずにまだつづいていると錯覚することになる」と指摘する。
だけども、「南京事件否定派を批判するために、南京事件史実派いわゆる「南京大虐殺派」が、資料発掘、収集に努力し、その成果を資料集や歴史書にして刊行してきた結果、南京事件の全体的歴史像の解明は飛躍的に進んだ」そうで、どんなことにもムダはないんだなと思った。

コメント (6)
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