三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ニック・カサヴェテス『私の中のあなた』

2009年11月13日 | 映画

ニック・カサヴェテス『私の中のあなた』「白血病の長女と、姉のドナーとなるため、遺伝子操作の末に生まれてきた妹を軸にした家族の物語で、親子の絆、生きることの意味、命の尊さが、真摯な眼差しで丁寧に描かれていく」という映画。
チラシには「世界中を涙で包んだ空前のベストセラーが、待望の映画化!」という惹句、そして「愛と優しさに溢れている」「震えるほどの感動体験」「ずっと忘れることのできない、美しい物語」という映画評(チラシの映画評はいつも当てにならないが)が載っている。
ネットの評判もいいようだ。

たしかに「笑顔と明るさに溢れた演出」だし、私も涙がこぼれた。
だけど、親が次女に無理矢理に腎臓を提供させようとするなんて虐待である。

白血病の長女を治すために遺伝子操作によってもう一人子どもを産む、ということは理解できる。
そして、骨髄移植などの治療を行なうことも。
だけど、長女が腎不全になったからといって、母親が次女に腎臓を提供させようとするものだろうか。
腎臓移植をして一時的に延命しても、白血病は治っていないし、治ることはおそらくない。
ところが、母親は腎臓移植を当然のことと考え、次女が弁護士を雇って移植を拒否すると、怒り狂って次女を罵るのである。
だったら母親が腎臓を提供しろと言いたくなる。

なぜそこまでして腎臓移植をさせようとするのか、そこらの説明がない。
それなのにチラシには「家族はまた、お互いへの絆を強めもするのだ」とある。
そんなことあり得ない。
次女が親を訴え、母親が次女をののしった時点で、いくらアメリカが訴訟社会だといっても、普通なら家庭は崩壊するはず。
なのに、映画ではそんなことなどなかったように今までと同じように仲良く暮らすんですからね。
おまけに、弁護士の母親は被告でありながら自分が弁護人となって次女と対決するんだから、もうどうしようもない。

そして父親、腎臓移植や裁判をどう考えているのだろうか。
裁判で、次女は死にたいと言っている長女に頼まれて訴訟を起こしたと発言し、そんな長女に気持ちを認めようとしない母親に向かって父親は「今まで百万回も言っていた。君はそれを聞こうとしなかった」と批判的なことを言う。
家族は母親に何も言えない状態だというわけで、仮面家族である。
とはいっても、父親は腎臓移植することをどう思っているのか、次女が訴えたことに対してどう感じたのかわからないし、裁判をするかどうかを夫婦で話し合ったようにも思えない。
次女に無関心なことでは父親は母親と同罪である。

両親は長男もほったらかしである。
失読症の長男は学校に行っていないようだが、映画は長男の悩みにほとんど触れていない。
原作では、「兄のジェシーは酒とドラッグに溺れ、放火を繰り返す。父親は、仕事を逃げ場としてしゃにむに働く」とあるサイトで紹介されていた。
ちなみに父親は消防士で、原作では息子が放火した火事を消すそうである。
それにしても、長女の医療費はかなりの金額になるだろうし、だけど大きな家に住んでいるわけで、消防士の給料はそんなにいいのかと思う。

そしてラスト、チラシによると「そうして物語は最も衝撃的で、最も優しい結末へとつながっていく―」わけだが、原作は映画とは違っているそうだ
「弁護士の車に乗ったアナは交通事故に巻き込まれ、脳死状態になって、死ぬ運命だったケイトが、アナの腎臓を移植されて、生き延びる。放火を繰り返した兄のほうは、放火は重罪なのに、父親は息子をかばって握りつぶし、成長した彼は、何と何と警官になるのだ」というまさに衝撃のラスト。

「それぞれの想い、そのすべては大好きな家族のため、さわやかに泣いた後は、生きていることへの感謝や、身近にいる人を愛することの大切さを、あらためて実感する」とチラシにはあるが、臓器移植が犠牲、献身という美談になっては困る。
家族愛というような美しい物語に仕立てることで、母親の残酷さ、父親の無関心さをごまかしているとしか私には思えない映画でした。
原作はアマゾンの評はいいし、「すべてにおいてパーフェクトな物語」という絶賛する評もある。
うーん、読みたいような読みたくないような。

コメント
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