三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『おくりびと』と『納棺夫日記』2

2009年10月01日 | 問題のある考え

某氏と話をしていて、『おくりびと』は臨終の善し悪しを言っている、という批判を某氏がした。
今さらながら、ああ、そうかと思ったわけです。
というのが、死に際を気にする人は多くて、「苦しんだんですけど、最後は穏やかでした」と話す遺族は多いし、弔問に行くと「まるで眠っているようですね」とか「いいお顔ですね」が慰めの言葉となる。
これは臨終に苦しんだらいいところに行けないのでは、という不安があるからである。
だから、納棺師の仕事の一つは「いいお顔」にすることで遺族に安心してもらうことである。
しかし浄土真宗では平生業成、臨終の善し悪しを問わない。
このことが青木新門氏が『おくりびと』の原作者とされるのを断った理由の一つかもしれない。

では、青木新門氏はどう言っているのだろうか。
名古屋別院暁天講座で青木新門氏は話をされたのだが、その案内文に次の言葉があった。
「映画のタイトルから原作者であることを外してもらったのは、拙著「納棺夫日記」の主題である「後生の一大事」の部分が完全に削除されていたからであった」

青木新門氏は自身のホームページにはそこらを詳しく書いている。
「私は納棺の現場で<人は死んだら何処へ往くのだろう?>と真剣に考えるようになっていた。
 いくら本を読んでも頭で考えてもわからなかった。やがて死に往く人や死者たちから死の実相を教わり、死後の世界をイメージとして描けるようになった。それは蛆も光って見える塵一つない美しい世界であった。これが宗教の云う<永遠>というものであり、仏教の説く<浄土>なのだと思った。うれしくなって<後の世を渡す橋>の一助になればと「納棺夫日記」を著したのであった。
 しかし、映画「おくりびと」は<世渡る>納棺師が描かれていた。即ちヨーロッパ近代思想の人間愛で終わっていた。私は著作権を放棄してでも「納棺夫日記」と「おくりびと」の間に一線を画すべきと思った。妥協することの出来ない一線であった。
 私の住む富山県内の葬儀は、現在も八十%以上が浄土真宗で行なわれている。お通夜などで蓮如の御文「白骨の章」がよく読誦される。その中に「後生の一大事」という言葉がある。また別の御文に「それ八万の法蔵を知るというども後世を知らざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを知者とすといえり」とある。現代の著名な知識人が死に直面して哀れなほどうろたえているのを見るたびに蓮如のこの文を思い出す。何も蓮如を引き合いに出さなくとも、あらゆる宗教は後生を一大事としているのである。
 この世を安心して生きるには、後の世も安心であることが絶対条件なのである。
 それは私が納棺の現場で死者たちから教わった真実であり、ブッダが説く真理であった」

うーん、さてさて、「後生の一大事」「後の世」が『おくりびと』では描かれていないとのことだが、では「後生の一大事」「後の世」とは何なのか。
『おくりびと』は日常の中の死を描いている。
それだけで終わっていて、
死んだらどうなるか、死後が語られていないことが青木新門氏にはどうも気に入らなかったのではないかと思う。

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2 コメント

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死に往く人や死者たちから死の実相を教わり (ゆうこ)
2009-10-01 22:22:06
 円さん。こんばんは。PC、直って返ってきたようですね、よかった~。
>著作権を放棄してでも
 なかなか厳しいですね。『納棺夫日記』は、8年余り前、読みました。不思議な世界に導きいれられるようで、大いに慰められたものです(弟と死別した直後で、死後の行方がのっぴきならない関心事でした)。映画『おくりびと』は見ていません。音楽が良いらしいですが、青木さんの意図したテーマとは全く別物ということですね。
 東別院へも、何度か行きました。親鸞さん、魅力あります。五木さんの新聞連載が終わって、残念・・・。
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やっぱりフリーズしてます ()
2009-10-02 19:04:06
買ったときからフリーズばかりしていて、直してもやっぱりフリーズするんですから、新品に代えてほしいんですが、世の中、そうはいきません。
『納棺夫日記』、次回は悪口を書く予定です。
ニューエイジはどうも・・・。
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