三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

植木雅俊『仏教のなかの男女観』

2009年01月22日 | 仏教

ある席で女性は仏になれないという話になったので、つい知ったかぶりをして、女性が仏になるためには変成男子といって、男に変身してそれから仏になるんだ、それは『法華経』によるとチンポが生えてくることなんだという話をした。
とはいうものの、本当かどうか心配になって植木雅俊訳『法華経』を調べてみた。

文殊菩薩が、8歳になる龍女(龍王の娘)が将来仏になるだろう(「正しく完全な覚りを覚ることができる」)と予言する。
それに対して、智積菩薩は龍王の娘が「正しく完全な覚りを覚ることができるということを、いったい誰が信ずるでしょうか」と疑い、舎利弗はブッダの位に達した女性はいない、
「理由は何か? 女性は、今日まで五つの位に到達したことはないからだ。五つとは何々であるか? 第一はブラフマー神の位、第二はインドラ神の位、第三は大王の位、第四は転輪王の位、第五は不退転の菩薩の位である」と否定する。
すると、「一切世間の人々の眼前において、また長老シャーリプトラの眼前において、女性の性器が消えてなくなり、男性の性器が現われ、そして、サーガラ龍王の娘は、自ら真の菩薩であることをはっきり示した」。
そして龍女は自分が覚った姿や、衆生に説法している姿を示したので、智積菩薩と舎利弗は沈黙してしまった。
というようなことが『法華経』「提婆達多品」に説かれている。

植木雅俊氏は注に
「「女性の性器が消えてなくなり、男性の性器が現われ」という箇所は、「変成男子」と漢訳された。この言葉尻をとらえて、「女性に対する差別」「時代思潮の制約から完全には自由になっていない限界」などといった論評がなされている。ところが、原文の前後を読むと、変成男子は、女性の成仏に必要不可欠な条件として描写されているのではなく、小乗仏教の偏頗な女性観にとらわれた人に、女性の成仏が可能なことを説得するための手段として用いられていることが分かる」
と書いている。

私も仏教は女性差別をしている、その表れが変成男子だと思っていた。
そこで、植木雅俊氏の『仏教のなかの男女観』を読んだみたのだが、これがおもしろい。
フェミニズムからの仏教批判は「仏教という宗教は「女人五障」説のように女性を男性の枠外に「排除」するか、さもなければ「変成男子」のように、女性の性を否定して、男性の性への「一元化」を説いてきたというものである。また、そのような「排除と一元化」の根源は、そもそも「五比丘」から出発した釈尊の原始サンガにあった、との指摘もなされている」
田上太秀博士は「原始仏教には差別はないが、大乗仏教は女性差別の宗教である」と断定している。

しかし、植木雅俊氏は、仏教が女性差別をしているという主張は誤解だと言う。
「女人五障と変成男子について検討してみると、いずれの批判も文章の前後関係や、歴史的背景を無視して一断面のみをとらえた議論というべきものである」
「変成男子という言葉の字面だけから、いとも単純に女性蔑視と決めつけるのは、当時の社会的、思想的時代背景を無視した皮相な見方であり、一面的な偏見と言わざるを得ない」

と言い、多くの経典を引用して
「バラモン教における典型的な女性差別に対して、歴史的人物としての釈尊が女性を全く差別していなかったこと、釈尊滅後になって仏教教団が小乗的(=保守的・権威主義的)になり、在家や女性を差別し始めたこと、そうした情況に対して大乗仏教があらゆる角度から女性の地位向上に向けて奮闘した」
という自説を論証している。

釈尊在世時の教団では、阿羅漢の境地に達した女性の弟子は少なくない。
出家後7日にして覚りに到った女性、在家の女性が釈尊の教えを聞いてその場で不還果に到り、出家後すぐに阿羅漢に到った女性もいる。

ところが、釈尊の滅後、教団は変化する。
1,在家に対する出家の優位
2,女性軽視
3,在家は阿羅漢になれない
4,出家も阿羅漢どまりで仏になれない

釈尊が神格化され、超人化されると、仏になるということがとてつもなく困難なことになっていく。
行はどんどん苦行となっていき、在家が仏になることは不可能になった。
この流れの中で、五障説というバラモン教的なインド社会の差別思想が小乗仏教に導入された。

五障説とは、女性は「帝釈天になれない」「魔王になれない」「梵天王になれない」「転輪王になれない」、そして「仏になれない」ということである。
「五障説は、女性が仏陀になれないということを確定するもので、成仏、智慧の獲得の可能性を全く否定しており、女性の全人格を否定するものであった」

五障のうち、最初の四つはバラモン教で言われていたことで、それに加えて「仏になれない」ということが加えられて仏教に導入されたのは部派分裂後の小乗仏教の時代だという。
「釈尊の平等論も、釈尊の滅後、次第にヒンドゥー社会の女性観が再度浸透し始め、部派仏教の時代、特に小乗仏教と貶称された時代になって女性は仏道修行において能力が劣ったものとされたり、成仏の可能性まで否定されるようになった」

それに対して、異を唱えたのが大乗仏教だった。
「大乗仏教は、その運動の目指すものの一つとして、従来のヒンドゥー教(バラモン教)的な観念の下で形成された女性蔑視の思想―それは小乗仏教の中にも反映されていた―を宗教的にいかに乗り越えるかということに取り組むこととなった。特に、原始仏教のころには存在せず、小乗仏教の時代にヒンドゥー社会の通念を反映して仏教に導入されたこの「三依」と「五障」の両説を克服するために大乗仏教の諸経典は大変な努力を払ったといえよう」

五障説に対する克服の方法は、
1,男女の性差は空にして不二、平等という考え
2,「変成男子説
という二つの観点がある。

空は『首楞厳三昧経』や『維摩経』など、変成男子は『法華経』や『大集経』など大乗経典に説かれている。
男女の区別は本質的なものではないのに執着し、絶対化することが迷いだと空思想は説く。

そして変成男子ということだが、
「変成男子ということに少し疑問が残る人も出てくるのではないだろうか。いったん女性から男性に変じて成仏したということは、最終的に仏に成ると言っているとはいえ、結局、女性を蔑視していることになるのではないだろうか? という疑問である」
と植木雅俊氏は問いを出して、このように答える。

1,妥協的表現
「本来は大乗仏教の中心思想ではない変成男子説によって、小乗仏教の教団も含めて、ヒンドゥー社会からの非難攻撃を避け、その鉾尖をかわそうとしたのではないか」

2,目に見える姿で示した
「女人の成仏を信じようとしないシャーリプトラに対して目に見える形で女人の成仏を見せつけることに、『法華経』の変成男子は意味があったのではないだろうか」
「心理的変化を目に見えるドラマとして視覚的に表現するために、身体的変化という表現方法を用いたものであろう」

初期大乗仏教は、女性を極端に蔑視するインド社会にあって、変成男子という妥協的表現によってであれ、女性が成仏可能であることを主張した。
そして、変成男子は女性が仏に成るための絶対的に必要不可欠の条件とはされていない。
『勝鬘経』では、女性である勝鬘夫人が説者である。
「在家の身で釈尊に代わって法を説き、それを釈尊が承認するという形式を取るにまで至っている。このころには、女性の成仏を主張するのに、女身を男身に転ずることを言う必要がなくなったようである」

『仏教のなかの男女観』の後半では、『法華経』の善男子善女人、一仏乗などについて論じられている。
この部分はそれまでの流れからちょっと脇道になっているように思う。
それと、「大乗仏教の女性の地位回復運動」という傾向の中で「阿弥陀仏の浄土だけはかたくなに女性は一人もいないとされたままだった」と言われると、ちょっと抵抗があります。

植木雅俊氏はジャーナリスト、40歳から東方学院で中村元氏にサンスクリット語を学び、51歳で博士号を取得したという人である。
大したもんだと感心してたら、たまたま読んでいた江原通子氏(大正9年生まれ)の自伝『瓔珞をはずすとき』に、江原氏は40歳をすぎて東洋大学仏教学科に入学、卒業して7年後に修士論文を出したと書かれてあった。
年を取って物忘れがひどくなったと愚痴ってばかりはいられないとは思うけど、そうは言っても…。

コメント (24)
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