スーザン・A・クランシーは『前世療法』のブライアン・L・ワイスや『アブダクション』のジョン・マックのように、退行催眠で思い出した記憶が実際にあったことだとは考えていない。
しかし、偽の記憶(物語)はその人にとって意味があると評価している。
で、話は飛ぶようだが、池内了『疑似科学入門』では、疑似科学を三種類に分けている。
第一種疑似科学 占い系、超能力・超科学系、「疑似」宗教系
第二種疑似科学 科学の乱用・剽窃・誤用・悪用・盗用に関わる事柄、物品の販売に絡む問題。科学を装う手口、科学用語の濫用(波動、フリーエネルギー、磁気効果、活性酸素、右脳左脳、前頭前野、クラスター水、マイナスイオン、アルカリイオン、ホメオパシーなど)、統計の悪用、確率による騙し
第三種疑似科学 複雑系に関わる問題(地球環境問題、狂牛病、遺伝子組み換え作物など)
宇宙人による誘拐は科学的に実証されているという主張は第一種疑似科学に含まれるだろうし、金儲けのために前世療法をしている某教授や某医師のしていることは第二種疑似科学だし、退行催眠によって失われた記憶がよみがえるということは第三種疑似科学かもしれない。
池内了氏はなぜ疑似科学を批判するのか。
「科学を仕事とする人間として、科学を装った非合理に対して黙ってみておられない場面もある。それによって人生を棒に振ったり、財産を失ったり、果ては命を失ったりする人が多いためだ」
クランシーが「エイリアンに誘拐されたと信じるようになるのかを気にかけなくてはいけない理由」としてあげている二番目の理由「奇妙なことを信じていると、その人にとってよくないかもしれない。なんでも信じるおめでたい人はペテン師に簡単に食い物にされてしまう危険がある」と同じ。
もっともクランシーはスピリチュアルに寛容的なようだが。
そして、池内了氏は
「最も憂えることは、自分の頭で考えるのではなく、ご託宣を何の疑問も持たずに受け入れてしまう体質になることである」
「非合理を安易に許容することで人間の考える力を失わせているのではないか」
「考えることは他人に「お任せ」し、自分はそれを信じ拍手を送るだけの態度が蔓延していると感じられるのだ」
と批判する。
疑似科学を頭から信じてしまう人は自分で考えることをしない。
「疑似科学の売りは、それを信じればすべて解決するということにある。考えてはいけないのだ」
「疑似科学に身を委ねれば考えるという面倒なことをしなくてよく、ただ信じておれば安心できるからいったん嵌るとなかなか立ち直るのが難しい」
「とにかく手っ取り早く答を出してくれる方を選ぶのに何が悪い、それが疑似科学だって構わないではないか、となってしまう」
「疑似科学」を「アブダクション」に置き換えても十分通じる。
83歳の男性はクランシーにこう言っている。
「とにかくおれが言いたいのは、どんなことだってありえるし、みんながおなじことを言っているんだから、なにかが起きているにちがいないってことだ」
これは迷信に従うのと同じ理屈(「昔からそういわれているからそうなんじゃないか」「みんながいけないと言っていることはしないほうがいい」)である。
そこには道理がないし、なぜそうなのかを考えようとしない。
クランシーはこう言う。
「客観的な証拠があるから信じるのではなく、証拠にかかわらず自分が信じるものを信じている。彼らは自分の体験に疑いを抱かない。自分の信じ込みが正しいことを確認しあっているだけなのだ」
なのに、クランシーはアブダクションという疑似科学を肯定するのである。
池内了氏は
「一般に、科学者は疑り深いから直ちに結論を出すことを避ける。明らかな証拠がないと、さまざまな可能性を考えてしまい、歯切れが悪くなるのだ。真実に忠実な科学者であればあるほどその傾向が強い。だから、そのような科学者にはテレビ局から声がかからず、人々に知られることが少ない」
と言うが、クランシーは結論を出すのが早かったのかもしれない。
また話は飛ぶのだが、竹田青嗣『ニーチェ入門』を読んだ。
この手の本を読むと、いつものように最初のあたりはまあまあ理解でき、面白くてためになるのだが、だんだんと難しくなって、最後はちんぷんかんぷん。
で、わからぬながら考えたこと。
「人間は、なぜ自分たちはこれほど苦しみつつ生きるのかとつねに問いつづけるような存在である」
意味のない苦しみには耐えることができないから、人は苦難の意味を求める。
どうしてこんなことになったのか、なぜ苦しみながら生きなければいけないのか、その説明を欲する。
「宗教や哲学はこの問いに対してさまざまな仕方で答えてきたのだが、ニーチェによればその答えは基本的に三つのカテゴリーを持っていた」
と武田青嗣氏は言う。
1、目的 「世界には確固とした目的があるはずだ」
2、統一 「世界には摂理とその全体がある、つまりそれは何者かによって統一されているにちがいない」
3、真理 「この世界は仮象にすぎない。したがって、〈真の世界〉が存在するはずだ」
で、エイリアン教もこの三つのカテゴリーに対する答えを与えていると思う。
常に問いつづけることは楽ではない。
だから、我々は苦しみつづけ、問いを持ちつづけるよりも、目の前の答えに飛びついてかんがえることをやめてしまいがちである。
しかし、苦しみに対して安易に意味づけして答えを出すことをせず、問いつづけることに耐える、これがニーチェの言いたいことかなと。
それにしても、答えがエイリアンではあまりにも安易すぎやしないかとため息が出る。
またまた話は飛ぶが、子どもを亡くした方たち、何人かの話を聞いたことがある。
宗教をかじっていると、「また浄土で会える」とか「私の苦しみを阿弥陀さんはご存じになって本願を起こされた」とかいう定型句で落ち着こうとする。
スピリチュアルに親近感を持っている人なら、「死別の悲しみを学ぶためだ」とか「試練を乗り越えるため」と考えるかもしれない。
本当にそれで苦しみが消えるわけでもないのだが、とにかくそういうことにして楽になりたいと思うのは自然な感情だと思う。
韋提希が無憂悩処を求めたようなものである。
ところが、私が話をお聞きした人たちに「○○というふうに考えたらどうですか」と言ったら、「そういうことはもう考えた。だけど、このつらさはやっぱりどうしようもない」と言われた。
おそらく、死別の苦しみを何とかしたいと思いながらも、ありきたりの物語では納得できない。
どこかで落ち着くことができないから「なぜ」と問いつづけざるを得ない。
だから問いが深まる。
話を聞いてずいぶん教えられた。
悲しみつづける力を与えられること、それが阿弥陀のはたらきかなと、またまた安易に結びつけてしまうのではアブダクションの悪口を言えません。