「日本講演」という講演雑誌(?)が送られてきた。
辻井喬の「憲法施行六十年―今、九条を考える―」(『ひろげよう!九条の心』講演会から)という講演録が掲載されている。
辻井喬が護憲の立場とは知らなかった。
なぜ改憲すべきか、改憲論者の主張する理由は、
「もしも、他国による日本への侵略があった場合、国連による阻止は期待できない」
「軍隊がなければ独立国として存立できない」
「GHQによって押しつけられた憲法だから、自主憲法に改正すべきだ」
ということらしい。
ところが、改憲しろとアメリカが押しつけているわけで、今回の押しつけには改憲論者からの反発がないのも変な話ではある。
日本の自給率は主食穀物の重量計算で24%、カロリー計算で40%。
日本は食糧を外国に依存しなければならないということを示している。
「これは要するに、日本国の食糧事情、あるいは、日本人の生命というのは、国際的な平和の中でしか維持できないような構造になってしまっていることの証明であります」
と辻井喬は言う。
ところが、安全保障のために軍隊を持つべきだというのでは、力でもって食糧や資源の確保をすべきだということになり、これでは大東亜共栄圏の発想と同じである。
で、裁判員は徴兵と同じだということに最初はピンとこなかったのだが、辻井喬の講演録を読んで関係があるなと思った
つまり
厳罰化=力で犯罪を抑え込む
戦争=力で相手国を抑え込む
ということである。
そして、裁判員制度、徴兵制は国民に力による押さえ込みの片棒をかつがせる役割をはたすものといえる。
となると、教育改革など、一連の改革は力で国民を抑え込むのが目的だということになる。
しかしながら、力では抑え込むことはできないんですね。
「日本講演」の平成20年1月15日号は東国原宮崎県知事の講演録、講演をどういう基準で選んでいるのだろうか。
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>いかなる不正義(個人的・社会的)も、ある境地に達すれば苦ではなくなる、この考え方を「境地の思想」「境地主義」という。要するに、「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。(略)釈尊は心さえ整えればどんな苦も苦と感じられなくなる、と言っているのではない。苦の原因は縁起の道理を知らない無知にあり、智慧をもって無知をただしていくことが苦の解決である、といっているのである。(略)戦争(地獄)や飢餓(餓鬼)や公害(畜生)に苦しむ人々に境地の思想を説くのは犯罪的とさえ言える。公害や戦争や飢餓で苦しむ原因は自分の心がけが悪いからだろうか?
>境地の思想とは、他者の不在でもある。苦を苦と感じなくすればよい、というのは自分一人だけの問題である。他者(衆生)への眼差しも他者(仏)からの眼差しもそこにはない。(略)ひたすら自己に沈潜することで、自己が(他者も)縁起=社会的存在であることを忘れたのではないか。また、自分を超えた存在(仏)によって自己のありかたを批判的に問うことも忘れたのではないか。
要するに、私もこういうことが言いたいんですね。ところが、宗門の大方は境地主義なんじゃないでしょうか。次の著名な教学者さんも
http://www5e.biglobe.ne.jp/~ym7m4ovz/shusokadai.htm
結論的には、平田精耕師とどんぐりの背比べじゃないでしょうか。
こだま「どこで見たんや~。お前ドングリが並んで背比べしてるとこ見たんか~」
ひびき「そやから、五十歩百歩やっていいたいんや!」
こだま「五十歩と百歩は全然違うやないか~。五十歩と五十歩が同じなんや~。ほな、何かい。競馬で写真判定ちゅうのがあるけど、あれ一着からべべまでみんな一着なんか。むちゃ言うたらあかんで~」
ひびき「わかったがな。もうあんまり言われると顔から火が出るわ」
こだま「顔から火は出えへんやろ~。火が出たらライターいらんやないか~」
教心寺 釈眞弌さんというご住職のものです。失礼しました。けれど、基本的な考え方は、菱木師と共通のものとお見受けしました。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/jble/recenzo/rec-j07.html
「苦」を観念的に解釈することなく、実践的な問題としてとらえることを主張されている菱木師の平和実現に向けての具体的な行動はというと。
「肩の力を抜いて軽やかに念仏を唱えて、反戦デモにも出てきて<しるし>を見せよう」だそうです。でないと、ファナティックな誠実さはしばしば傲慢になり、それがむしろ暴力を生み出すこともあるのだと言われてます。
つまりは、小川さんのコメントで円さんがいわれていた
>人助けが慈悲行だという思い上がりを捨てろということにポイントがあるだけのことではないでしょうか。
平和運動が善行だという思いあがりを捨てろということになってしまいますね。そこで、ぐる~っと一周まわるわけで。で、さらにわたしは反戦デモはスキではないので参加しません。
ほんと「苦しむ人々に境地の思想を説くのは犯罪的」と思いますね。
「経教は鏡のごとし」と言いますが、経という鏡が何を映すかというと、時(時代社会)と機(私)の五濁さ、すなわち社会の濁り、人間の濁り、私の濁りを映し出すと思います。
ところが、社会の濁りは自分自身の濁りが作り出したものだから、自分の濁りをなくしましょう、という理屈になってしまいがちなんですね。
普通だったら社会が悪いという被害者意識を持つわけですが(それがいいとは言いません)、すべてを自分の心の問題に矮小化させようというのは、誰かの狙いなのかと邪推します。
>「肩の力を抜いて軽やかに念仏を唱えて、反戦デモにも出てきて<しるし>を見せよう」
このあたりの文章は句読点がはっきりせず、菱木氏の意見がどうなのか、それに対して書評子はどう考えているのか、よくわかりません。
誤解があるように感じます。
けれど、浄土とは「ともに生きよう」と私に呼びかけて下さってる世界でもあるし、選ばず、きらわず、見捨てずと私を受容してくれる世界なんだ!というのが私の直感的な「ああ、ええなあ」という感想で。
で、菱木さんらがおっしゃることもいつもながら「わからいでもないが」、ちょっと厳し過ぎて「救い」はどこにあるの?と思ってまして、だんだんついていけなくなりました。
境界線上の神学者、パウル・ティリッヒは『生きる勇気』で、trotz(にもかかわらず)という概念を提出してました。苦悩がなくなって救いがあるのじゃなく。苦悩があるにもかかわらず、それに立ち向かう「勇気」それこそが信仰である、と。
またまた同じネタですが。鬼束ちひろさんが「こんなもののために 生まれたんじゃない!」と歌いましたが、「にもかかわらず」生きていく力。そういう歩みを起こさせる力が、他力かなと。
んでもって、自分を信頼してくれる力を感じるからこそ、自己と自己が所属する世界への批判的なまなざしによって、懺悔や慙愧もあるのかな、と。ただただ謝り続けるのもしんどいですからね。
これは死後の世界としての浄土を言わなくなった反動みたいなこともあると思います。
>浄土とは「ともに生きよう」と私に呼びかけて下さってる世界でもあるし、選ばず、きらわず、見捨てずと私を受容してくれる世界なんだ!というのが私の直感的な「ああ、ええなあ」という感想で。
こういう受け取りも、今生きている世界がえらび、きらい、見捨てているということがあるからで、つまりは浄土が批判原理となっていることでしょう。
>パウル・ティリッヒは『生きる勇気』
大学の先輩の卒論が「存在と勇気」という題で、ティリッヒを論じたものでして、なんだかすごくなつかしい。
>苦悩がなくなって救いがあるのじゃなく。苦悩があるにもかかわらず、それに立ち向かう「勇気」それこそが信仰である、と。
「にもかかわらず」の哲学ということですか。
>「にもかかわらず」生きていく力。そういう歩みを起こさせる力が、他力かなと。
伊東慧明先生が、浄土は生きていく力のわき出る泉だ、というようなことを書かれてました。
でも問題は、生きていく力というと、力を実体化するおそれがあるということです。
菱木さんは、確か曽我量深師の言葉を引用して「法は機に摂まる」でしたか。(漢字が違てるかも)
そういう言い方で、機の方に重点を置かれていたのでしょうけど。
私、その法をむしろ聴きたかったんですね。で、ユーモアを交えたオーソドックスなお説教を聴いてるほうが有り難いなあと思ってました。けれど、一方で死後の世界の浄土や、業論にはついていけなさを感じてましたのでね。
>生きていく力というと、力を実体化するおそれがあるということです。
パワーストーンとか、気のあふれ出ている土地とか、、、
知りませんでした。
>機の方に重点を置かれていたのでしょうけど。
大谷派は機が好きですよね。
だけど、あまり機を言いすぎると自虐的になって、それが快感になってしまうんですよ。
>ユーモアを交えたオーソドックスなお説教を聴いてるほうが有り難いなあと思ってました。
オーソドックスな法話というのは長年聞いている人にはいいのでしょうが、初めて聞く人にはどこの世界の話だということになるような気がします。
>パワーストーンとか、気のあふれ出ている土地とか、、、
そうそう、真宗もスピリチュアル化する要素があるわけです。
自己ツッコミですが。まあ、これは当初、善意から出発したものが反転し、悪意を秘めたものになるという運動のタイプ。菱木さんは、明恵の誠実さが「アブナイ」と指摘されてましたが、それは忍性のアブナさでもあるんやないかなあ。
そして斉藤貴男さんの何かの本の中でのエピソードがおぼろげなのですが。何かのデモの最中、サラリーマンがデモ隊に向かって「っるせー、バカ野郎!」と怒鳴った。すると、デモ隊の誰かがこの人を逆に罵倒した。この言葉を正確に思いだせないのですが。
お前たちが知らないうちに社会は右傾化しているだぞ!みたいな言葉だったか。戦争に向かっているんだぞ!だったか、、、そういう意味のことで、斉藤さんもその通り!と書いていたのですが。違和感バリバリ。
確かに、その人たちの社会状況のとらえ方なのでしょうけど、それを街頭に繰り出して絶叫するわけですから、やかましいのは当然だと思うんですが、、、何かこの自己満足的運動スタイルのワンパターンさは、やっぱり自分には合わない。
>オーソドックスな法話というのは長年聞いている人にはいいのでしょうが
かつて大阪教務所長をつとめられた宮部幸麿師のご法話のような。靖国もも死刑廃止(笑)も出てこないお話しに深く感銘したことがあって、もっと若い頃から聴いておきたかったと思いました。
だから、長女には明恵をもじった名前をつけました。
私たちは完璧な人間を求めているんですね。
この先生は大したもんだなと思って感動しても、酒を飲んだらだらしなくてガッカリ、なんてことがあります。
その点、明恵は欠点がないような気がします。
どうも、自分は凡夫だからなどとすぐに自分のことは棚に上げて、そのくせ他人には失敗、間違いを許さない、という性癖は普遍性を持っているのではないでしょうか。
第三者から見ると、あまりにも勝手なことがミエミエなんですけどね。
で、新左翼とか社会運動は自分たちだけで通用する用語を持っていて、その言葉を使ってるとお互い分かり合えていると安心するらしいですね。
ま、これは真宗も含めた宗教団体にも言えることですが。
これまた第三者から見たら、ただうさんくさいだけなんですね。
>宮部幸麿師のご法話のような。靖国もも死刑廃止(笑)も出てこないお話
オーソドックスとはそういう意味ですか。
本願とか浄土とかおまかせとかご開山のご苦労とか、そういう前提がまずあって、その前提を問うことなく、聞いている人はすでにわかったものとして話す、そういう話かと思ってました。
大学を出てすぐのころに聞いた竹中先生のお話は私にとって衝撃的でしたね。