本願寺が出している「同朋」という雑誌に、森達也のインタビュー「もっともっと世界は豊かで美しい」が載っていた。
森達也の言葉をいつものように無断引用。
「メディア全般がそうですけど、特にテレビは「わかりやすさ」を追求します。(略)
いろんな現象や事件、人間を単純化し簡略化しようとするんですね。(略)
簡略化とは、いつもものごとを「黒か白か」「善か悪か」などの二元論や二項対立に置き換えてしまう」
「オウムだけじゃない。アルカイダに対しても、北朝鮮に対しても、レッテル貼りのような見方をしてしまう。でも、犯罪行為をする人が、もともと邪悪で凶暴な存在だなどということはないわけでしょう。もっともっと人間は多面的だし、矛盾を抱えた存在です。(略)
信者に対して「ちょっとかわいそうだな」と同情的になる人は必ず一人二人はいるんです。けれどもそういう人たちは、マスコミの報道には決して登場しません」
「一面だけ見れば、人間にはたしかに殺伐としていたり凶暴だったりする面もある。でもそれは一面に過ぎない。一人の人間を理解しようと思ったら、やっぱり一面からじゃなく全部を知りたいと思いますよね」
「人は常に、共同体の中で同一性を確認したいわけですよ。それを確認できるいちばん手っ取り早い方法は異物を見つけることです。その異物をみんなで排斥する。排斥しても、今度はそれに外から攻撃されるかもしれないと怖くなり、仮想的をつくって先制攻撃をはじめる。アメリカなどはその悪循環にずっと前からはまっているですが、日本も同じようになってきた気がしますね」
「いまの社会で起きているのは、人々が被害者に過剰に感情移入して、加害者への制裁や厳罰を声高に要求するような現象です。なぜ過剰に反応するのかというと、加害者を憎みたいからですよ。加害者を憎悪することで、自分たちの一体感を高めたい。そういう傾向がどんどん強くなっている。僕はそれが嫌なんですよ」
「花粉症を思い起こせばいいと思うんですよ。花粉症というのは、過敏になりすぎた免疫細胞がスギ花粉を誤爆しているわけですね。スギ花粉そのものは何ら害はないわけですが、誤爆の副作用で身体が壊れてしまう。皮肉なことに、日本にこれだけ花粉症がはびこった理由は、もちろん戦後の植林政策の誤りもあるんだけど、もうひとつは雑菌が減ったからですよ。敵がいなくなっちゃった免疫細胞が、必死に敵を探しているわけですね」
「過剰なセキュリティが、母体である社会を壊すんです」
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http://book.asahi.com/review/TKY200504190213.html
ジラールは今村さんの本で知りました。しかし今村さんの文章も難渋でした。今村さんはお東の平野修さんとの交流で、清沢満之に関心を持たれたのでしたっけ。んで、柄谷さんの書評では、ラカンやジラールがカトリックという解答を隠しもっていたように今村さんも宗教を説かれるのだろうかという不信感をもたれていますが。
確かに共同体と供犠、暴力。個人と欲望、模倣。。。こういう問題群は、出口なしの様相を呈してますね。悪というものを自己に見る。。。というのは↓のような大谷派の教えでよくわかったのですが。
http://www.eonet.ne.jp/~souan/jihou/2000/20007.htm
しかし、逆に社会の問題として考えていくとジラールのような視点が必要となると思います。
今村氏の本は私にはお手上げでした。
森達也氏のようにわかりやすい言葉で書いてくれれば。
「ジラールは(ある意味でラカンも同様であるが)人間が解決不可能な困難をもつことを執拗に示すとき、暗黙裏にカトリックという救済装置をもっていた」
とありますね。
欧米では何だかんだ言ってもキリスト教の持つ力は大きいと思います。
被害者遺族が死刑反対を言う場合、そのバックボーンとしてキリスト教があります。
加害者の心の闇、そして加害者を生んだ社会、その両方を見すえる目をキリスト教から与えられているように感じます。
他者を他者として認識すること。森さんの言葉で「痛みの共感/憎しみの共感」というのがあったと思いますが。
共感といっても、やはり最終的には他人とは別人であるということは忘れてはいけませんね。親しき仲にも礼儀あり。ましてや知らぬ間では、いっそう自戒が必要ですね。これまた耳がイタイ。
>バックボーンとしてキリスト教があります。
浄土教の持つ同時代性をおおいに訴えたいものですね。
浄土教も梵我一如的でもあるし。
だけど、どうもというところです。
またまた本田神父の引用です。
「相手の立場には金輪際立てないというところから発想しなおすのです。ではどうすればいいか」
「同じところに立てないのですから、教えてくださいっていう学ぶ姿勢を持つことです」
そして、
「もし、わたしがだれかの痛みに共感しつつも、その人が苦しめられていることについて怒りをあまり感じないとしたら、わたしの共感は本物ではないということです」
厳しいですね。
最近、本格的に仏教の勉強会はじめました。(私はやりたくないのですが)「私は清澤満之に関心があります」。。。と言う人がいてビックリ。ニーズがあるのに、ほったらかしなんですねぇ。
>その人が苦しめられていることについて怒りをあまり感じないとしたら、
ささいなことで、喧嘩がおこるのがこの街。でも仲裁名人がおられます。なぐりあいする人たちの懐にカラダごともぐり込むのが実に早い。まあ私も遅れて止めに入る技術を学んでいるところですが(笑)。
何でもこの人若い頃に、自分が傷害事件を起こしたのでその後はベジタリアンをやっているそうで、酒は呑んでも肉ケは取らない。だから、飲んでもからんだことが見たことがないですね。
酒かっくらって、肉のつまみ好きな私は。。。何なんでしょう。。。(汗
「ワシは生きてるときは、キリストさんにお世話になっとるけど、死ぬときは仏さんに頼みたいんや」。。。という声が多いんです。生きてる間も仏さんに大いに世話になって下さいまし。。。
どの程度本格的なんですか。
清沢満之の研究者をよんで話を聞くとかされているでしょうか。
>ニーズがあるのに、ほったらかしなんですねぇ。
ほったらかしじゃないと思いますよ。
宗教、仏教や真宗を何らかの形で求めている人が多いことはわかっていても、そういう人に来てもらうにはどうしたらいいかがわからないんですね。
>なぐりあいする人たちの懐にカラダごともぐり込むのが実に早い。
大学のころ、木屋町を歩いていたらケンカがあり、みんなが遠巻きにしながら面白がって見ていたことがありました。
私は何となくいやで、そそくさと立ち去ったことを覚えています。
あるいは、やっちゃんがタクシーの運転手にからんでいたり。
特急での強姦事件、この人がいたら、と思いました。
散発的、突発的にやっていたものを、継続してやり出したという意味です。けれど、宗教社会学専攻の学生さんが、キリスト者の福祉事業は目だっていて、研究も多いけど、仏教者の近代・現代における福祉事業はよくわからないので、その研究をするのならお手伝いしましょうと言ってくれたので、ちょっとばかし専門家の勉強会も開く予定です。
あと、中学校の先生が休職して院生としてこの街を研究されてます。あるとき、「論文ができたら、また先生をやるんですか?中学生って生意気で、勉強もしないで学校ってムチャクチャなんじゃないですか?」と質問しました。
そしたら「その通りです。でも先輩教諭に言われたんです。この荒れてる生徒たちは事情があるから荒れているんだ。それが何なのかわかれば、教師も面白いよ、と」学校がつまらなく、さぼっているのは家庭のイロイロな事情が反映しているそうです。
私などは、そんな金八先生じゃあるまいし、ホントにそうなんですかと思うような生徒たちの苦悩の例を語って下さいました。それは、ホームレスの人々の野宿に至る理由と重なり合うところがありました。
>「この荒れてる生徒たちは事情があるから荒れているんだ。それが何なのかわかれば、教師も面白いよ、と」学校がつまらなく、さぼっているのは家庭のイロイロな事情が反映しているそうです。
先日お聞きした方も同じことを言われていました。
その子のやっていることは無茶苦茶で、それだけをとらえるとこの野郎と思う、しかしその背景を見ていく必要があると。
そして、自分なりに苦労やいやな思いをしてきた、自分は被害者だと思っていた、だけど加害者でもあることに気づいた、というような話をされました。
>そんな金八先生じゃあるまいし、
クラスにイジメがある場合、担任がイジメを許さない熱血先生だと違ってくるんだそうですね。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1028.html
この本もほとんど歯が立たないんですが、エッセンスは何となくわかりました。
http://www.ll.chiba-u.ac.jp/100bs/020.html
テーマは、アブジェクシオン。おぞましきもの。秩序や体系を壊し、境界や区分や規範をあいまいにするもの。しかし同時に抗し難い魅力を持つものです。
自己の同一性をグラグラにし、社会を不安にさせるもの。こいつをやっつけることによって安心や安定を取り戻そうとするわけです。
ということはわかるんですが、若桑氏の説明だと、魅力を持つもの、ということには触れていませんね。
『母なるもの』の魅力ということでしょうか。