『親子のための仏教入門』の著者である森政弘氏はロボット工学者です。
坐禅を長くされているそうで、坐禅をしても眠たくなり、早く終わらないかと雑念ばかりだった私とは違って、坐禅をして得られた境地の話には、そうなのかと思いました。
アラ探しの好きな私ですので、これはどういうものかと思ったことを書きます。
心眼を総動員して、よくよくこの世を見ますと、われわれが目で見たり、耳で聞いたり、手で触ったりすることのできるような物事(これを現象世界と言います)の奥には、「宇宙のはたらき」があることが分かります。この「宇宙のはたらき」は真理とも宇宙の大生命とも言われますが、仏教ではこれこそが本当の姿、実相だと言います。
よく「仏のはたらき」ということを言いますから、「宇宙のはたらき」という言葉はよしとしましょう。
しかし、実相とは真実の姿ということですから、実相=「宇宙のはたらき」ということは?です。
では、「宇宙のはたらき」=実相とはなんでしょうか。
エネルギーについては、みなさんお分かりのとおり、電気の姿をしたり、石油の姿をしたり、水の流れの勢いという姿をしたりというふうに、いろいろな形でわれわれの目の前に現れますが、エネルギーそのものは目にも見えず、手でも触れません。それにもかかわらず、だれもがエネルギーが存在することを疑いません。
「宇宙のはたらき」=実相=エネルギーだということは???です。
そして、「宇宙のはたらき」を手が二本あるということから説明をされます。
手の長さについてもそうで、われわれの手は、ちょうど適当に自分の体中のほとんどのところへ届く長さになっており、ひじ関節の位置が5センチでも下にあれば、肩が掻けない。
肩に手が届くには、関節はちょうど腕のまん中にある必要がある。
米沢英雄氏は、阿弥陀仏のはたらきの例として、胎児は呼吸をしていないが、生まれると同時に「オギャー」と泣いて呼吸をすることをあげています。
しかし、こういうたとえはどのように解釈するかによって意味が大きく違ってきます。
森政弘氏は、エネルギーが人間の手を二本にしたと言いたいのでしょうか。
となると、先天的に腕がない人は、エネルギー、もしくは「宇宙のはたらき」によってそのように生まれたということになります。
そして、「天地のすべてを作り、またそれらを動かしている」のが「宇宙のはたらき」だとしたら、実相とはキリスト教の神のような創造神だということになってしまうように思います。
手が二本あるのは進化の過程でそうなったのであって、エネルギーではなく、縁起だと考えるのが仏教ではないでしょうか。
もう一つ気になること。
これは梵我一如ではないでしょうか。
「宇宙のはたらき」が梵で、仏性が我です。
釈尊は梵我一如を否定したと私は思っているのですが、仏教で説かれていることは梵我一如的な事柄が多いように感じます。
そのあたりを解説した本があればぜひ読んでみたいです。
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