袴谷憲昭、松本史朗両氏の本をまとめて読みました。
少しずつご紹介します。
袴谷憲昭『仏教入門』、とてもじゃないけど入門書とは言えない難しい内容だが、だけど気づかされたこと、教えられたことが多く、刺激的な本だった。
なるほどと目から鱗が落ちた。
他の本も読みたくなり、『批判仏教』を図書館で借りると、これまたよくはわからないけども、さらに刺激的である。
実名をあげての批判というか、悪口がどんどこどんと出てくる。
梅原猛や江藤淳、中沢新一といった人を叩くのは、仏教の立場からしたら当然である。
しかし、袴谷憲昭氏は曹洞宗のお坊さんで、駒沢大学の先生であるにもかかわらず、駒沢大学総長とか宗門内の人、たとえば高崎直道といった人にも批判の矢を向ける。
さらには
とまで断言する。
根性あると思う。
そこで『本覚思想批判』も読んだ。
ここでも「本覚思想は仏教ではない」と袴谷憲昭氏は明言する。
本覚思想とは
という考えである。
本覚思想を仏教でないなら、日本仏教は仏教ではないことになる。
釈尊は、無我・無常を説いたわけで、当然ながら実体的・不変的なものは否定される。
となると、仏性を実体視すべきではない。
そして、「あらかじめ真理があるというラフな考え」は仏教ではない、という袴谷憲昭氏の説はもっともだと思う。
袴谷憲昭氏は「非仏教=土着思想」だと主張する。
土着思想とはどういうものか。
インドの土着思想=ウパニシャッド哲学
中国の土着思想=老荘思想
日本の土着思想=本覚思想
ウパニシャッド哲学では梵我一如を説く。
梵我一如とは、我(真の自己たるアートマン)と梵(根本の真理たる絶対者ブラフマン)とが本質において同一であると、瞑想の中で直観することである。
すなわち、自分が本来梵と一つであることを体得することが悟り、解脱である。
釈尊は梵我一如を否定したのだが、次第に仏教の中にも梵我一如的な考えが浸透していった。
たとえば、松長有慶高野山大学元学長の
という、梵我一如的発言を袴谷憲昭氏は紹介している。
池田大作氏も次のように言っているとのこと。
もっとも、仏教についてのこうした言説は珍しくない。
「本来の世界」「本来の私」といったことをよく聞くが、これも梵(ブラフマン)や我(アートマン)を今風の言い方にしただけ。
「無限の世界と一つになる」とか、「もとのいのちの世界に帰る」は梵我一如である。
さてさて、宇宙の根本原理ということだが、老荘の道とは『荘子』によれば、
ということだそうだ。
ところが、親鸞の、
という言葉と似ているじゃありませんか。
袴谷憲昭氏は、真如、仏性、アラヤ識、法界なども仏教本来からすると否定されるべき概念だと言う。
「仏の慈悲の中に生かされている」という言い方がよくされる。
これは縁起を表していると言えるし、梵我一如として解釈もできる。
「法身」とは梵や道(タオ)のような根本原理なのだろうか。
無我、すなわち我を否定する仏教よりも、梵我一如的な考えのほうが我々には受け入れやすい。
梵我一如の考えはグノーシス主義、神智学、ニューエイジ・スピリチュアルと深く関係していると思う。
「法身」は梵ではないということをはっきりさせないと、仏教は梵我一如を目指す教えとなってしまう。
疑問に思ったところ。
という講義を陳腐と、袴谷憲昭氏は評している。
そして、信心をも否定する。
宗教は客観的真実ではなく、主体的真実だからこそ信心は不可欠だと思うのだが。
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