かつて西丸震哉の山歩きエッセイを愛読していた。
だけど、お説教口調の中にはえっと思うものがあって、こういうことを書かれるとムッとする。
「宗教者だって、ほんとうに心から感謝しながら生活しているかどうか。きいたことはないし、きいてもどうせ本心を正直に答えるはずはないから、きこうともおもわない」
聞きもしないで勝手なことを言わないでほしい。
では、讃岐の庄松さんに尋ねてみましょう。
「庄松はん、如来の御恩ということは、何ともないが、真実領解が出来たら、御恩御恩の日暮が出来ますか」
「おらはそんな難しいこと知らぬ。お前はお前の持ったまま暮らせ、おらはおらだけで暮らす。そんなこと聞いて何にする」
次に浅原才市さんは何と言っているでしょうか。
「才市よい うれしいか ありがたいか
ありがたいときゃ ありがたい
なっともないときゃ なっともない
才市 なっともないときゃ どがあすりゃ
どがあも しようがないよ
なむあみだぶつと
どんぐり へんぐり しているよ
今日も くる日も やーいやーい」
最後に田原のおそのさんに聞いてみましょう。
「おそのさん、あなたがおいでると、同行の方々が集まって、さも嬉しそうにご相談しておられますが、私はいかなる邪見者やら、ただこの世ばかりが面白うて、後生のことは嫌いで御座います」
「そうそう、お前さんもさようか。私もそれよりほかはない。毎日、仏法の話はしているけれども、仏法が好きではありませぬ。実は後生のことは大嫌いで、この世のことが好きで御座ります。けれども嬉しいことには、後生が嫌いで、この世が好きな者も、親様が好いて下されますげなで、この世好きの後生嫌いの者が,一番けにお浄土へ参らせて下されますげなで、それが何より嬉しいでのう。このことを毎日談合しているのじゃげなあ」
念仏申したり、仏法を聴聞したからといって即身成仏するわけではないし、人格が向上するわけでもない。
ありがたいと感謝の気持ちがわくことがあっても、やはり欲も起これば腹も立ち、不平や愚痴はつきない、どうにもならないお手上げの私である。
なのに、西丸震哉(トンデモ系の部分もあるらしい)のように、自分はよくわかっているという気になってしまうどうしようもなさ。
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「学校や家ではがんばれば報われるということを教わったけど、がんばればがんばるほどダメになることがある。。。これで大丈夫(クリーンな状態を続ける)とひとりタカをくくったときに、またクスリに手を出すこと(スリップ)がある。。。」
以上正確な引用ではなく、自分の記憶をもとに書いてます。この辺りも鋭い指摘だと思うんですが。こういうお話しは面白い。でも、聞法会でこういうことをしゃべると、「お呼びでない?お呼びでないね。こらまた失礼いたしましたっ!!」ってすべる感じになるんですね。
円さんが書かれている妙好人さんたちは、しょっちゅう踊躍歓喜の心でいるわけではないけど、ベースにあるのはお日ぃさんが昇っている状態であって、そこには雲や霧がかかる日もあるって感じですけど。
今もご門徒さんに、妙好人の話しってウケルって感じはあるんですかねえ、、、
愛山護法のお話はダメでしょうね。
体制擁護のために利用している感じですから。
いい話だけど、説明をくわえないとわからないだろう話もあります。
私は妙好人の話はしません。
話術がいると思うんですよ。