自然の中で生きている動物たちは、弱肉強食という過酷な世界を生きている。大きなものが小さなものを食べ、強いものが弱いものを食べる。
大自然のバランスは、こうした生態系を維持することにより成り立っている。
弱いものたちは、食べられても種を保存するに十分の個体数をもち、平然と食べられている。
逆に強いものほど、空腹に耐え、種の保存にあくせくしなければ生きていけない状況にあるのが、大自然の法則である。
草原のライオンは、必要なときにしか狩りをしない。それでも、大きな獲物を手に入れるのは、たとえライオンといえども、容易なことではない。何日も空腹を抱えて、暑さと飢えに苦しむ日々もあるそうだ。
では、人間はどうだろう。「長いものにはまかれろ」ということわざがある。「数は力なり」ということわざもある。
人間界にも弱肉強食の論理が存在するが、どうやら人間界は、弱者が少数で、強者が多数のようだ。
少数意見を重んじるのが、民主主義の原則というが、永田町あたりでは、原則というのは、はがし忘れた冬の冷やし中華のメニューのようなもので、聞かれれば、「ああそうだね」というほどのものなのか。
郵政民営化法案をめぐって、政党内のいざこざが問題になっている。法案の内容そのものよりも、派閥議員として生きていけるかどうかという人間の浅ましさばかりが目につく。
自らのいのちを犠牲にした議員もいるというのは何ともおぞましい限りである。
人間界の種の保存もいのちがけという点では共通するのだろうか。
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日記へのコメントもよろしければお願いしますね。
私が思い付いたことを気ままに書いています。
静水に小石を投げるように
読む人の心にさざ波が起きてくれればと
思っています。見て下さる人がいるという
ことが何よりの励ましです。
きたんのない御意見お待ちしています。
『勝鬘経』はこのマッリカー(勝鬘夫人)が主人公ですね。
茉莉花は『法句経』にも登場するモクセイ科の香り高い花で、ジャスミンの一種だとのことです。
これからもよろしく。
提示していただいた今度のブログは、まさに私が届けたかったものだったので、思いがけなさと共有できそうな出逢いを嬉しくおもっています。
ただ、いきなりの訪問にしては饒舌に過ぎたように感じていますので、コメントはしばらく置いて、ブログを楽しませて戴こうかと思っています。
またそのうちにコメントさせてください。
ところで、「マツリカー」という経名、なんだかかわいいな~と思うのは変かな~。
うつ病の方の話を聞く機会が何度かあり、うつ病という病気について、そしてウツについて知らなかったことが多かったと気づかされました。
ウツの人は死を今の苦しみから解放する救いであると思うんでしょうね。
ある門徒さん、ご主人を亡くされて何年も経ったころですが、「そりゃ死んだもんのほうが楽ですよ。生きていくほうがしんどいですよ」と言われたことがあります。
生きることの大変さは大変さを経験したものでないとわからないのでしょうか。
>利他行や慢や本能という概念にも干渉されたくないと思います。
概念でレッテルを貼り、それでわかったような気になる、という意味でしたら、同感です。
>お釈迦様は自己を愛しむことを否定していらっしゃるものではないようです。
>ただ、真に自己を愛しむとはどういう事かと語っておいでのように思われます。
このことについてブログで書いてみました。
先の私のコメントは「種の保存もいのちがけ」という言葉だけに単純に反応したもので、いささか気ままに流れたようでした。
「本能に逆らってまで自ら命を絶たずにはおられないと・・・・」についてはまったく同感です。
私には鬱病治療中の娘がひとりおりまして、その娘が自死を願望したことがあって、それと戦い続けてきた話を聞かされたときには本当に立ちすくむ思いをしたことを忘れません。
幸いに医師病院に恵まれて、本人は鬱病との付き合い方も覚えてきたようです。
私にとりまして彼女が抱えた状況とその存在から学ぶことが幾つもありました。
鬱をかかえた人達の言葉をいくらか察する気持ちも育ったように思います。
娘は自分の病気を不幸という気持ちで表したことはありませんでした。
私も、彼女についてとても心配はしますが、不幸という思い方はしません。
何より、不幸という概念に干渉されたくないからです。
利他行や慢や本能という概念にも干渉されたくないと思います。
たまにその娘と言葉を交わす事はとても楽しい時間です。
共有共感できる部分があることが楽しいのです。
主に芸術系の素人談義と弱さに関することですが。
お釈迦様は自己を愛しむことを否定していらっしゃるものではないようです。
ただ、真に自己を愛しむとはどういう事かと語っておいでのように思われます。
また気ままにすぎるコメントになったようです。
なにしろ水割り片手の言葉なので、水増し分だけ割り引いて読んでいただければ幸いです。
コメントへの返事が遅くなりました。
>「種の保存もいのちがけ」といわれながら、自死はその否定的行為でもありませんか。
おっしゃるように、自死は種の保存という本能の否定的行為ですね。
埴谷雄高「死霊」の中で、人間が自分の意志でできることは自殺と子供を作らないことだけだ、というような言葉がありました。
人間には生存本能と種保存本能がありますから、この二つの本能に従わないことは自らの意志によらなければできない、ということなんでしょうか。
だけど、そういうふうに意志的に自殺する人はあまりいないわけで、本能に逆らってまで自ら命を絶たずにはおれないという思い、そこを大切に考えるべきだと思います。
>我見にどっぷりつかっている生の姿のなかに、他を生かそうとする行為
菩薩の利他行と凡夫の世のため人のためとはどう違うんでしょうね。
仏教論風なら、それもすべて慢のためだとなるんでしょう。
もちろん他者に対して、あんたのやっていることは我慢だ、ということでなく、自覚として、ですが。
となると、無償の愛が菩薩行ということでしょうか。
こういうことを考えると、頭の中がごちゃごちゃしてしまいます。
これからもよろしく。
どうぞ削除して下さい。
なんなら両方とも・・・
おもしろそうな(魅力的な)のでついコメントです。
「種の保存もいのちがけ」といわれながら、自死はその否定的行為でもありませんか。我見にどっぷりつかっている生の姿のなかに、他を生かそうとする行為に対して共感と敬意と憧れを感じる心もありますね。
「利己的な遺伝子」論風なら、それも自分の遺伝子を生かして行くためとなるのでしょうが、わたしは概念にだまされたくないな~と思っています。
この部屋はいろいろ考える刺激を感じさせてもらえるようです。
コメントはともかくとして、気にして行くことでしょう。
どうぞよろしく。