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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

パンとサーカス

2007年01月01日 | 死刑

イソップ物語に「池の中の蛙」という話がある。

大きな池のそばに、子どもたちが遊びに来て、石を拾い、池に投げはじめました。楽しい遊びでした。子どもたちは明るい笑い声を立てながら、いくつもいくつも石を池に投げました。その池の中に蛙がたくさん住んでいました。一人の子どもが投げた石が蛙に当たり、死んでしまいました。でも、子どもたちは何も知らずに、次から次へと笑いながら石を投げ、何匹もの蛙の生命が亡くなっていきました。

この物語はいろんなことのたとえになるが、まずはイジメを連想させる。
私も面白がって石を投げていた。
どれだけ傷つけたのだろうかと、今になって思う。

石を投げていることを人から指摘されて恥じるならいいが、つい自己正当化してしまう。
悪気はなかったとか、冗談だとか。
時には、自分のしたことは正しかったと思い込もうとする。
相手が悪いから注意したんだとか。

さらには、正義感で石を投げることもある。
1月1日の毎日新聞に、「ネット君臨」という特集記事があった。
2ちゃんねるで、ごく普通の人を誹謗中傷雑言罵詈、徹底的に痛めつけていることについて、被害にあった人、叩いた人のインタビューが載っている。

ネットでさらしたり叩いたりすることもイジメだが、叩くほうは自分の悪意を意識してはいないらしく、叩かれるほうが悪いと思ってて、自分がどれだけ相手を傷つけたか、想像もしないらしい。
投げた石が当たって死んでいくカエルのことは気にならないように。

ある研修会での座談会で、「大谷派は死刑に反対しているのはなぜか。人を殺したんだから死刑になるのは当然ではないか」という意見が門徒さんからあった。
真宗の教えを長年聞いてきた方でも、「殺した人は殺されても仕方ない」という考えを持っているのか、といささか驚いた。

だけど、私だって光市の事件については「あれだけのことをしたんだから、死刑になっても仕方ない」と思っていたんだから、えらそうなことは言えない。

高橋哲哉氏の話によると、カントも応報の論理に基づく死刑存置論者で「殺した者は殺されなければならない」というふうに書いているそうだし、ユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントもアイヒマン裁判が絞首刑の判決を下したことを支持した。

悪いことをしたから、報いを受けなければならない、と考えるのは素朴な感情である。
応報の論理に反論するのは難しい。

しかし、応報の論理からすると、なぜ殺人には死刑という報いになるのか。
他の犯罪、たとえば人を殴った傷害罪の加害者が、罰として殴られることはないし、交通事故で人をひき殺しても、加害者を車でひくべきだと主張する人はいないと思う。

 殺人→死刑
 傷害致死→有期刑
 強盗→有期刑

殺人の報いが死刑という殺人なのはなぜか。
懲役刑も応報刑という意味があるはずだが。

先日、4人が処刑されたが、今年の執行がゼロになってはまずいという政治的な判断があったらしい。
フセイン元大統領の死刑にしても、あまりにも政治的茶番である。
悪いことをした報いで死刑になるのは当然だという素朴な感情を、政治が利用しているように思う。
素朴な感情の政治的利用といえば、靖国神社も同じである。

紅白歌合戦で、DJ OZMAの後ろで踊っていた女性たちのオッパイ丸出しには驚いた。
いくらボディスーツだといっても、あれではストリップである。
NHKよ、お前もか、受ければいいのか、面白ければいいのか。

殺人事件の加害者に対して「殺せ、殺せ」の大合唱も同じこと。
その刃は被害者にも向かい、被害者を誹謗中傷する人がいる。
一億総愚民化である。

某氏と飲みながら、日本は愚民化政策をとっているんじゃないかと言ったら、「パンとサーカス」という言葉があると教えてもらった。
古代ローマ帝国を表す言葉だそうで、民衆にはパン(食べ物など)とサーカス(娯楽、気晴らし)を与えておけばいいということである。
石を投げて喜んでいる今の日本も似たり寄ったりではないか。

話は変わるが、愛とか平和とかやさしさとか癒しとか、そういうことをニューエイジやスピリチュアルは言っているが、死刑廃止には関心がないらしい。
鯨やイルカのことは心配しても、人間には無関心なのだろうか。

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2 コメント

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善悪のふたつ (万次)
2007-01-01 21:44:27
 仏教では、行為に関して身業、口業、意業といいますよね。実際に身で行うこと。言葉で表わすこと。心で思うこと。

 で、実際やってしまったことを反省するということがありますし、前言を取り消すということがあるし。
で、考え直し、思いなおすということもある。

 でも、自分の行いや意見、ものの見方がいつも「正しい」と思っていれば、その「正しい」という行為や意見を補強する情報ばかりを仕入れるということがありますね。異論、反論を受け付けなくなる。

 で、悪いなあとか申し訳ないなあとか、これはマズイなあと思いながら、やめられないことも確かにあります。(これ以上寝る前にモノ食ってたら太り続けるとか、酒のみ続けてたら血糖値上がるとか、これは自分の健康に対してですが)

 親鸞さんなら、「悪性さらにやめがたし」という言葉がありますね。

 で、いいことしようと思っても実際はイロイロ矛盾が出てきます。叡尊さんや忍性さんが、少し脚光を浴びて「日本のマザー・テレサ」と言われたりしますが、幕府に近づいて、経済援助を引き出さなきゃ、ああいう大規模な慈善事業はとても続けられません。

 で、戒律を厳しく守るという現在の「厳罰化」にも近い発想を持っておられたようですが、まあに対しても、病苦に対して、過去世での行いが現在あらわれた結果だという認識のもとに救済を行っていますし、良し悪しだなあと思います。
 http://homepage1.nifty.com/sawarabi/ninnsyou/5narasaka.htm 
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正義すなわち征服 ()
2007-01-02 20:55:09
白川静「字通」を調べると、「正」という字は征服という意味なんだそうです。
「征服者の行為は正当とされ、その地から貢能を徴することを征といい、強制を加えて治めることを政という」
興味があれば「征」と「政」も見てくださいな。
このことを知って、正しいことというのは恐いなと思いました。
となると、真宗的人間、すなわちすかっと割り切れず、グダグダしているのが一番健全かなと、ある意味自信を持ちました。(笑)

慈善事業にしても、こういうことやってますよ、と声をあげている人はどうもうさんくさい。
とは言え、黙っていたのではわからない。
ま、政治的手腕も必要ですからね。 
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