島薗進『国家神道と日本人』による葦津珍彦『国家神道とは何だったか』批判です。
神道学者の中には、明確な戦略的意図をもって、国家神道の狭い定義を掲げた論者が多い。
代表的な論者である葦津珍彦の『国家神道とは何だったか』は、国家神道の主体を神社神道と捉え、かつ国家神道が強大な力をもったという国家神道論を論駁しようという意図に基づくものだ。
国家神道とは行政官僚が神社を支配し、神社は宗教活動に制限を受けた時期の、厚遇されたとはいえない神社神道を指すのだという。
神社が神道本来の活動から遠ざけられていた時代のあり方を、神社界が権力と一体となって跋扈し、悪しき国運を招いたかのように描き出すのは妥当ではない。
このように、葦津珍彦さんの主張をまとめています。
この葦津珍彦さんの国家神道論に対し、島薗進さんは以下のように批判します。
この立場は、神社神道が宗教であることを認めるように見えて、実は皇室祭祀・皇室神道が宗教であることを否定し、国家神道の陣地を挽回しようとするものだ。
国家神道を狭く神社神道に限定して定義することは、神社界を中心とした神道は戦前の軍国主義・侵略主義や信仰強制に対してさほどの責任はないとする論点とも結びついている。
しかし、皇室祭祀・皇室神道を排除した国家神道理解は成り立ちえない。
国家神道は神社の国有化ではない。
神社神道は、皇室崇敬に資するような新たな神社を設立しつつ、全国の神社を組織化していく過程で形成されていった。
だから、神社神道組織を皇室祭祀と切り離して、それだけを独立した宗教組織として実体視するのは適切ではない。
そもそも、神社神道とよべるような統一的宗教組織は明治維新以前には存在しなかった。
皇室祭祀と連携して組織化されることにより、初めて神社神道とよびうる組織が形成され、次第に国家神道の重要な担い手となった。
国体の教義と皇室祭祀や神社神道を結びつけたのは、教育勅語であり、祝祭日システムやメディアだった。
明治維新後の祭祀は祝祭日に行われ、大多数の国民の日常生活に関わるものとなった。
学校行事やマスコミ報道などを通して、皇室祭祀が多くの国民の生活規律訓練の場や情緒の昂揚を共有する機会を提供し、人々の生活のハレとケのリズムに深く関わるものとなった。
天皇を神聖とし、天皇崇敬を鼓吹する行為が長期にわたり日常的に行われた。
ただし、天皇が現人神だという神格化は、教育勅語が発布された段階ではそれほどの強くなかった。
多くの人々が我が身を投げ出しても惜しくないと思うような信仰の対象に天皇がなったのは、1930年代以降の戦時中に限られる。
『尋常小学校修身書』(昭和2年)
三年生用「よい日本人」
五年生用「我が国」
天皇は民のことを常に気にかけて下さる。
だからこそ、民は大御代の弥栄のために命を捧げなくてはいけない。
そういう教育の基盤には国家神道がある。
このように島薗進さんは論じています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます