三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

赤狩り(2)

2019年10月07日 | 映画

ダルトン・トランボたちが召喚された当初、世論は19人に好意的で、非米活動委員会にかなり批判的だったと、ブルース・クック『トランボ』や陸井三郎『ハリウッドとマッカーシズム』にあります。

19人を支援するためにハリウッドでは「米国憲法修正第一条の定める宗教言論の自由のための会」が結成された。
60人以上の監督、俳優などの著名人が発起人になり、最後には500人以上になった。
19人がワシントンに飛ぶ前夜には、7000人の参加者を集めて、資金カンパの決起集会が開かれた。

非米活動委員会による「共産党の映画業界への浸透」に関する聴聞会は1947年10月20日に始まった。
非米活動委員会の喚問も活動そのものも憲法修正10カ条すべてに違反している。
特に、言論と出版の自由、平穏な集会の自由の権利を規定した米国憲法修正第一条を盾にたたかうことにした。
米国憲法修正第五条(黙秘権)を申し立てれば議会侮辱罪を逃れられるという意見もあったが、自己に不利益な供述を強要されないことを定めたこの条項は、ギャングや刑事犯に利用されてきたので、潔白と信じる彼らは第五条を援用しないことに決めた。

非米活動委員会は、共産党の手に落ちたハリウッド、モスクワからの命令で動く共産主義者に翻弄されるスタジオと職能組合、映画から共産党のプロパガンダを引き出そうとする監督や脚本家というイメージを描き出そうとした。

「あなたは今、アメリカ共産党の党員ですか、あるいはかつて党員でしたか」という質問に対して、ハリウッド・テンは答えるのを拒否し、10人は議会侮辱罪を言い渡された。
トランボは「これはアメリカ強制収容所の・・・はじまりだ!」と叫びながら強制退去させられた。

1947年11月、映画業界の大物プロデューサーやスタジオ幹部たちの映画制作者協会の総会がウォルドーフ・アストリアホテルで開かれた。
そして、ハリウッド・テンを告発する決議が採決され、ブラックリスト作りが正式に決定された。

ウォルドーフ協定の主旨。

我々は10人全員を補償なしで直ちに解雇あるいは停職とし、無罪となるか侮辱罪の嫌疑を晴らし、共産主義者ではないと宣誓するまで再雇用はしない。
さらにもっと広く、ハリウッドの破壊分子や非愛国者と目される者についても、同じように積極的な行動を起こす心構えでいる。
今後、共産党員、力や違法・違憲行為によってアメリカ政府の転覆を唱えるいかなる団体のメンバーも、情を知って雇用しない。


ウォルドーフ協定が出ると、ハリウッドの機運は一夜にして変わった。
弱い立場にあるスターや外国生まれのアメリカ人(エリア・カザンたち)は忠誠心を証明してみせなければならなかった。

これ以降、1950年代を通じて事態は悪くなるばかりだった。
映画業界にブラックリストを実施する「アメリカの理想を守るための映画同盟」は、スパイや情報提供者のネットワークを持ち、大手銀行にまで浸透していた。
ブラックリストに載っている名前に小切手を振り出せば、「アメリカの理想を守るための映画同盟」に通報され、違反した会社に圧力がかけられる。
独立系の制作会社であっても、施設の利用や映画の配給、そして俳優の手配まで大手のスタジオに頼っていたため、そのいずれかでも融通しないとスタジオに脅かされれば、今後は違反しないと約束するしかなかった。
ブラックリスト入りした脚本家がテレビの闇市場で働くことも、テレビ業界でブラックリストを強制している組織は、広告代理店や広告会社を通じて圧力をかけていた。

アメリカ映画協会は、ブラックリストに載った脚本家の名前は、それ以前に書いた作品であってもクレジットしないと決めた。
ブラックリスト入りしたダルトン・トランボはB級映画や独立系のプロダクションの脚本を他人名義で書くようになった。
1947年、キング・ブラザーズ・プロダクションが提示した契約は、1年半で3750ドル。

1948年、アメリカ連邦地裁は証言を拒否した10人全員に1年ないし6ヵ月の有期刑と、1000ドル前後の罰金刑を科する有罪判決を下した。
1949年11月、上訴棄却。
1949年、トランボは議会侮辱罪で刑務所に入る前に、映画の原案で4万ドルの報酬をもらう。(その映画は制作には至らなかった)

1950年、トランボは刑務所に入るためにロサンゼルスから発った。
空港には見送りの人だかりができ、「ダルトン・トランボ 刑務所に行く。ハリウッド・テンに自由を!」という横断幕が広げられた。
ペンシルベニア駅に着くと、1000人を超える人が集まり、トランボとローソンに声援を送った。
残りの8人がロサンゼルスを発った時は、見送りは3000人いた。
1950年6月、刑務所に入り、10か月後に出所。

長年にわたってトランボは新聞や雑誌などで必要以上のバッシングを受け、嫌がらせの手紙も届いていた。
自宅の前で襲われたこともあった。
夜遅く駐車スペースに車を入れると、家の前に少年が2人と少女が1人いて、「共産党野郎を追い払え」みたいなことを歌っていた。
「出ていけ」というと、殴り倒された。
蹴られながらも、1人の足をつかむと、相手は手を振りほどこうとしてもみ合いになり、結局、3人は逃げ出していった。

妻のクレオはPTAの集まりに行っても、1人で座っていた。
誰もクレオの隣に座ろうとせず、近くに座ろうとすると、みんな席を移ってしまった。
一番ひどい時期は、次女が通う小学校の校長までがクレオと話をすることを拒否した。
キャンプファイアーガールズの演目のリハーサル中、クレオは校長を含む全員から無視された。
10歳の娘も3ヵ月の間、クラスメイトから無視され、ときには罵声を浴びせられることもあった。
味方になってくれる友だちは1人もいなかったばかりか、みんなが彼女を「裏切り者」と呼んだ。

映画芸術科学アカデミーは、ブラックリスト入りした脚本家にはいかなる場合もオスカーを送らないと決めた。
しかし、トランボは偽名で書いた『黒い牡牛』で1957年にオスカーを受賞した。
1958年には、トランボは闇市場であっても1本あたり最高で7万5000ドルの脚本料を得ていた。

1956年、ブラックリストに入っているジュールズ・ダッシンが監督し、ベン・バルツマン(彼もブラックリストの一人)の脚本の『宿命』がフランス代表作品としてカンヌ映画祭に出品された。
映画祭のアメリカ代表団は審査委員たちに、この作品に主要な賞を与えないよう圧力をかけ、審査結果によってはアメリカは脱退すると威嚇した。

1960年、フランク・シナトラが制作予定の映画の脚本家にアルバート・マルツ(ハリウッド・テンの一人。『ハリウッドとマッカーシズム』にはトランボとある)を選んだと発表したら、米国在郷軍人会やカトリック団体が脅しをかけ、シナトラは屈した。

ブラックリストは1960年に破られた。
ダルトン・トランボの名前がクレジットされている『栄光への脱出』と『スパルタカス』(どちらも1960年)の上映に反対するカトリック退役軍人会のデモ隊が映画館を取り囲んでいた。
ところが、次期大統領のジョン・F・ケネディは司法長官となる弟のロバートとともに『スパルタカス』を見た。
感想を聞かれて、ケネディは「楽しめたし、とてもいい映画だった」と答えた。
このケネディの支持がカトリック退役軍人会や米国在郷軍人会、「アメリカの理想を守るための映画同盟」、非米活動委員会からの反対に、事実上の終止符を打った。

とはいえ、『アラビアのロレンス』は、北米ではトランボの名前はクレジットされていない。(北米以外では脚本の共同執筆者としてクレジットされている)
1966年に制作された『野生のエルザ』では、レスター・コール(ハリウッド・テンの一人)の名前はクレジットされていない。

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