三日坊主日記

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チベット密教とオウム真理教 5

2010年06月15日 | 問題のある考え

オウム真理教では、信者たちが麻原彰晃の命令に従ってポアという名の殺人をしたのはなぜか。
いつものこじつけですけど、そこにもチベット仏教の影響があると思う。
チベット仏教は師を絶対化し、無条件で服従しなくてはいけない。
そして、神秘体験を重視する。
この二点は関連がある。

島薗進氏によると、麻原彰晃はラマ・ケツン・サンポ、中沢新一『虹の階梯』の影響を受け、熟読し、多くを学んだことはまちがいないそうだ。
その『虹の階梯』の序に中沢新一氏はこう書いている。
「ラマによる灌頂と口頭伝授をつうじて、わたしの前に開示されたゾクチェン=アティヨーガの世界は、そうした言葉どおり、わたしを深々とした神秘体験のとば口に導いてくれた。現象の世界をつきやぶって、本然の心の輝きが、見開かれた修行者の眼前に、たちのぼる虹、とびかう光滴、あざやかな光のマンダラとしてたちあらわれるようになる」
つまり、ラマの指導に従うことによって、悟りという神秘体験が得られるというわけである。

師資相承によって教えが伝わるのだから、師を大切にしなければならないのは言うまでもない。
しかし、チベット仏教では師と弟子は「徹底的全面的な支配服従の関係」にある。
ラマ・ケツン・サンポ師は「ラマへの深い信頼、誠実、熱意、渇望、そういうものがなければ瞑想修行の成就は難しい」と話し、そしてティローパとナローパ師弟のエピソードを語る。
ティローパはナローパ(マルパの師匠)に九層の塔から飛びおりろとか、焼けた竹のとげを指の間につきたてろなどと命じる。
これはヴァジラヤーナの「弟子の心の成熟のために、弟子に暴力を加えるなどの悪業をあえて犯すこと」ですね。
ナローパはティローパから与えられたこれら24の試練をのりこえ、そうして悟りを得る。
このように、師に絶対服従しなければ成就することはできない。
「昔の成就者たちは、身体の苦しみや自分の命のことなどにまるで無頓着に、これほどまでして真理の教えを求めたものだ」とラマ・ケツン・サンポ師は話す。

これを読んで、オウム真理教元信者のこういう話を思いだした。
「(事件は)全然信じられませんでした。ただ、その当時は、「ああ、尊師はこんなウソまでついて私たちの志気を高めようとしているのか。それじゃあ、この芝居に乗っかかってやるしかないな」ってわざと信じるふりをしていたんです。
その後、(略)事件はオウムが起こしたものってほぼ確信したんです。でも私はやめなかったんですよ。一年くらい残っていたんです。
まだ残っている人もそうだと思うけれど、グルの真の意図を確かめたかったからですね。「私には理解できない、何か深い考えがあるのではないか」。それがありましたね」
(カナリアの会編『オウムをやめた私たち』)

何でこんなことをしなくちゃいけないのかとか、矛盾してるじゃないかとかというように、おかしいなと疑問を感じることがあっても、これにはきっと深い意図があるに違いないとか、私を試しているんだとか、疑いが生じるのは煩悩のせいなんだと都合よく考え、無意識のうちに疑問をおしとどめる。
これは盲従である。
そのうちにどんな無茶な指示でも躊躇なく従うようになる。
師匠が間違えないという保証はない。
島薗進『現代宗教の可能性』に、「最終的な善悪の基準が、超人的とされる個人の信念に委ねられることで、独善的な暴力への批判やチェックの可能性が失われている。そこには自己中心的、自己陶酔的な暴力の正当化に対する、教義的な歯止めがない」とある。
このチェック機能の有無という問題は、オウム真理教の暴力だけの問題ではなく、あらゆる教団に、そして献金や布教など宗教的行為のすべてについて言えることだと思う。

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