1970年、ダルトン・トランボはブラックリストに全面的な協力をしてきた全米脚本家組合から功労賞を贈られます。
受賞演説で「あの長い悪夢の時代を罪なしに生きぬいたものは―右派、左派、中間派を問わず―われわれの間に一人もいない」とし、みんな犠牲者だったのだから「ゆるしあおう」と発言しました。
そのトランボも「カザンについては軽蔑を感ずる」と切り捨てていると、陸井三郎『ハリウッドとマッカーシズム』にあります。
1998年、エリア・カザンはアカデミー賞名誉賞を与えられました。
ところが、リチャード・ドレイファスたちは授与反対の声明を出し、会場の外で授与支持派と反対派の双方がデモを行い、会場にいた映画人からブーイングを浴びせられました。
というのが、非米活動委員会に召喚されたカザンは、友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優ら11人の名前を出したからです。
でも、証言を拒むとダルトン・トランボたちのように仕事を失ってしまうので、やむを得ないと私は思ってました。
『ハリウッドとマッカーシズム』によると、エリア・カザンが内通者となったのは映画演劇業界では37番目だし、告発した人数も多かったわけではありません。
内通した人数は、監督では、ロバート・ロッセンが54人、エドワード・ドミトリクが26人、エリア・カザンは11人です。
ワシントン・ポストも、『エリア・カザン自伝』を書評に取り上げ、エリア・カザンの作品は高く評価しても、カザンの行為を許してはいないそうです。
『エリア・カザン自伝』は1988年の発行。
エリア・カザンが79歳の時です。
リリアン・ヘルマンの訃報に接したことが書かれており、リリアン・ヘルマンは1984年に死んでいるので、何年かかけて書いたのでしょう。
カザンは何でも残しておくそうで、日記、メモ、自分が出した手紙、愛人や母たちからの手紙、匿名の手紙などを引用しています。
やたらと長いこの自伝を最後まで読ませるのは面白いからです。
演劇界や映画界の裏話、有名人への率直な評価(悪口)、そして露悪的に自分のことをさらけ出し、女遍歴を語ります。
最後にこう書いています。
読み進むにつれて、カザンが非難され続けているのは性格の悪さがあるんじゃないかと感じました。
「わたしは本当に妻を愛していた」と書いていますが、常に浮気をしていた。
何度か修羅場があったし、妻が弁護士に依頼して離婚手続きを開始したことも二度あった。
そして、「わたしがほかの女性たちと親しくなったとしても、みんな一時的な放縦に過ぎなかった」と自己弁護しつつ、「いうまでもないが、モリーはわたしと結婚すべきではなかったのだ」、「ともに暮らすということは、他の何にもまして困難だった」とも書いています。
彼女が〝心地よい〟と感じた人生は、わたしが見る限り、わたしを蝕みつつあったからだ。不倫がわたしの命を救ったのだ。
浮気は妻のせいだと言ってるわけです。
1962年、53歳の時、『草原の輝き』の宣伝のため、妻とストックホルムに着いた翌日、妻でない女性(23歳年下)が息子を生んだことを知らせた電報を受け取った。
「そのとき、自分が狼狽したかどうか思い出すことができない」
翌年、妻は突然亡くなります。
妻の死後、「わたしは今ならどこにでもいけたし、どこででも暮らせたし、なんでもやりたいことができた。それは鮮烈な実感だった」と書いています。
子供たちがどう思うか、さすがにカザンも気にしています。
わたしはずっと以前から、そういうことを恥とは感じないようになっていた。
53歳で妻が死に、58歳で長年の愛人(1962年に子供を産んだ人)と再婚。
しかし、60をすぎても行状はおさまらないので、夫婦仲は悪い。
1980年に2番目の妻も死に、2年後の73歳の時に再々婚(37歳年下)。
幸せだとのろけて(2人の写真が最後のページ)、『エリア・カザン自伝』は終わります。
子供たちはどう思ったでしょうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます