三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

赤狩り(1)

2019年10月03日 | 映画

ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』(1971年)を見たのは高校の時です。(ダルトンではなかった)


芸術派、もしくは社会派と思ってたら、脚本家としてのトランボは職人だと、何かに書いてありました。
 

ジェイ・ローチ『トランボ』を見て、読んだのがブルース・クック『トランボ』(1977年)です。
冒頭、『パピヨン』(1973年)が撮影に入ったが、撮影と同時進行でダスティン・ホフマンの登場する場面を脚本に書き加えなければならなくなり、トランボがその仕事を引き受けたというエピソードが書かれています。
脚本料は制作の推定予算に比例して上がり、大作映画だと脚本料はかなりの金額になるそうです。
報酬はスティーブ・マックイーンが200万ドル、ダスティン・ホフマンは125万ドル。


トランボはハリウッド最高級の脚本家だった。
1944年、『緑のそよ風』のあと、MGMから週に3000ドル、あるいは映画1本につき7万5000ドルの好きなほうを選べるという契約を提示された。
脚本に加わっても、クレジットに名前が出ないことがしばしばだし、脚本が売れても制作されないこともあった。

戦争の悲惨さを強く訴える『ジョニーは戦場へ行った』を作ったダルトン・トランボは赤狩りで刑務所に入っています。
赤狩り時代にもトランボは変名で多くの脚本を書いています。

1947年、下院非米活動委員会はハリウッドに目を向けた。
ハリウッドの友好的証言者から聴取したが、その全員がアメリカ映画協会の作った反共組織「アメリカの理想を守るための映画同盟」のメンバーだった。
1947年9月23日、ワシントンで行われる非米活動委員会への出頭を命じた召喚状が19人に手渡された。
実際に非米活動委員会に召喚されたのは11名。
そのうち、ブレヒトを除く10名がハリウッド・テンと呼ばれる。
その一人がトランボだった。

陸井三郎『ハリウッドとマッカーシズム』によると、非米活動委員会は、1938年、アメリカの仮想敵国、特にドイツの宣伝・スパイ活動を主として調査するという名目で設置された。
ところが、設置目的とは反対に、超保守派、白人至上主義者、反ニューディーラーと反リベラル、反ユダヤ主義者、人種差別主義者、親ナチ、親フランコ分子などの結集の場となった。
1950年代末までにおそらく何万人(映画、演劇、ラジオ、テレビ、そして連邦、州、自治体などの職員や教師、大学などの学者や、会社、労組、さらには一般事務職や郵便配達)もが、FBIの秘密捜査によって赤狩りのブラックリストに載せられ、職から追放された。

『ハリウッドとマッカーシズム』の最後に、マッカーシズムの15年間に急死や自殺した17人の名前があげられています。
スタンフォード大学の学者で、非米活動委員会に出頭の二日前に服毒死したウィリアム・K・シャーウッドの妻が、夫に代わって1957年6月に出頭して、ステートメントを読み上げ、委員会室から追い出された。

非米活動委の委員各位へ
みなさんは私の夫を殺し、子供たちを父なし子にする原因をつくりました
これは私たち一家の悲劇です
でも、みなさんがアメリカの子供たち、世界の子供たちに向けておかした罪悪にはくらぶべくもありません(略)
委員各位よ、みなさんがやったこと、現にやっていることは、よこしまなことです。出てゆきなさい。家に帰りなさい、そして頭をたれて、みなさんの神にゆるしを乞いなさい。
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