『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、加藤陽子東大教授が栄光学園の中高生に5日間講義したものです。
知らんかったと思ったことをいくつかご紹介します。
政治システムの機能不全とは、たとえば現在の選挙制度から来る桎梏。
小選挙区制下では、投票に熱意を持ち、かつ人口的に多数を占める高齢者世代は確実な票をはじきだしてくれるので、為政者は絶対に無視できないが、投票に行かない子育て世代や若者の声が政治に反映されにくい。
そのために、義務教育期間のすべての子供に対する健康保険への援助や、母子家庭への生活保護加算は優先されるべき制度だが、こちらには予算がまわらない。
「人民の、人民による、人民のための政治」で有名なリンカーンのゲティスバーグでの演説は、南北戦争の最中である1863年に行われた。
戦意昂揚のためと北部の連邦政府の正当性をリンカーンは訴えた。
演説の中にこんな文章があるそうです。
これは国のために死んでくれる人を再生産する靖国の論理と同じだと思いました。
リンカーンの演説は、戦死者への追悼であるとともに、国を再統合し、国家目標、国家の正当性を新たに掲げるためにされた。
日本国憲法も同じ構造である。
憲法は、国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方を明らかにしたものといえる。
たとえば、ファシズムに対する戦争、国家存亡のための戦争、戦争をなくすための戦争など。
ルソーによると、戦争の最終的な目的は、相手国の土地を奪ったりといった次元のものではない。
相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序(広い意味での憲法)に変容を迫るものこそが戦争だ。
第二次世界大戦で敗北したドイツや日本の憲法=基本的な社会秩序は、英米流の議会制民主主義に書きかえられた。
ここまでが序論です。
日清戦争、日露戦争について。
日清戦争は帝国主義戦争の代理戦争だというところでは不可避だったそうです。
日本―イギリス
清―ロシア
日露戦争も代理戦争だった。
日本―イギリス・アメリカ
ロシア―ドイツ・フランス
日露戦争は満州の門戸開放よりも、朝鮮半島(韓半島)をめぐる争いで、ロシアのほうが戦争には積極的だった。
1897年、朝鮮は大朝鮮国だった国号を大韓帝国に変え、朝鮮半島も韓半島と改めたそうで、これからは韓半島という言葉を使うべきでしょうか。
第一次世界大戦について。
第一次世界大戦が終わり、パリ講和会議で戦勝国が熱中していたのは、ドイツからいかに効率的に賠償金を奪えるかだった。
戦争中、イギリスは42億ドル、フランスは68億ドル、イタリアは29億ドルも、アメリカから借金をしていたので、ドイツの賠償金によって借りた金を返さなければならない。
経済学者のケインズは、アメリカに対して英仏が負っている戦債の支払い条件を緩和するよう求めたが、アメリカは英仏からの戦債返済を主張した。
満州事変について。
満州事変の2か月前に、東京帝国大学の学生に意識調査をした。
「満蒙のための武力行使は正当か」という質問に88%が「正当だ」と答えた。
「直ちに武力行使すべき」と答えたのは52%。
「いいえ」と答えたのは12%。
満州事変の後にも意識調査が行われているが、前と後では調査結果があまり変わっていない。
満蒙問題について武力行使に賛成だったのは、日本の主権を脅かされた、あるいは社会を成り立たせている基本原理に対する挑戦だと考える雰囲気が広がっていたことを意味していた。
大多数が「はい」と答えたからといって、正しいとは限らないという例になります。
日中戦争について。
日中戦争については、日本人はこの戦いを「戦争」と思っていなかった。
中支那派遣軍司令部は、日中戦争は戦争ではなく「報償」だ、相手国が不法行為をしたので、不法行為をやめさせるために実力行使をしたと発言している。
なぜ国際連盟を脱退したかというと、強硬に見せておいて、相手が妥協してくるのを待ち、脱退せずにうまくやろうとしたが、熱河侵攻計画によって日本は新しい戦争を起こしたと国際連盟から認定されてしまいそうになり、除名や経済制裁を受けるよりは、先に脱退したほうがいいということになった。
満州に移民した人数が一番多いのは長野県で3万3741人、そのうち約1万5000人が死んでいます。
飯田市歴史研究所編『満州移民』からこういった事実が紹介されています。
1932年ごろから試験的な移民が始まっていたが、国の宣伝は間違いで、厳寒の生活は日本人に向いていないという実情が知られると、移民に応募する人は減ってしまった。
そこで国や県は、村ぐるみで満州に移民すれば助成金を出すことになった。
助成金をもらわなければ経営が苦しい村が積極的に満州分村移民に応募させられ、結果的に引揚げの過程で多くの犠牲者を出した。
助成金で言うことを聞かせる政府のやり方は今も昔も変わらないということです。
見識のあった指導者もいて、大下条村の佐々木村長は、助成金で村人の生命に関わる問題を安易に扱おうとする国や県のやり方を批判し、分村移民に反対した。
賢明な開拓団長に率いられた千代村では、元の土地所有者である中国農民と良好な関係を築いており、敗戦になると中国農民の代表と話をつけ、開拓団の農場や建物を譲り、安全な地点までの護衛を依頼して、最も低い死亡率で日本に引揚げた。
第二次世界大戦について。
ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1.2%だが、日本軍の捕虜になったアメリカ兵の死亡率は37.3%。
『大脱走』と『戦場にかける橋』での捕虜の扱いの違いは作り話ではないわけです。
日本は捕虜に対してだけでなく、国民にも同じ扱いをしています。
ドイツは1945年3月までのエネルギー消費量は1933年の1~2割増だった。
それに対し、戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つで、敗戦間近の国民の摂取カロリーは1933年時点の6割だった。
なぜかというと、工場の熟練労働者には徴兵猶予があったのに、農民には猶予がほとんどなく、肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業生産を支えるノウハウを持つ農学校出の人たちも全部兵隊にしてしまったので、技術も知識もない人たちによって農業が担われたから、1944年、45年と農業生産は落ちた。
スターリンが知識人や軍人たちを大量粛清したために生産力が落ちたり、ドイツの侵攻を許したのと似てます。
しかし、このような本を読み一時的に溜飲を下げても、結局のところ、「あの戦争はなんだったのか」式の本に手を伸ばし続けることになりそうです。なぜそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。これでは、過去の戦争を理解しえたという本当の充足感やカタルシスが結局のところ得られないので、同じような本を何度も何度も読むことになるのです。このような時間とお金の無駄遣いは若い人々にはふさわしくありません。
新聞の広告を見ると、日本礼讃本が目につきます。
同じような本を何度も読むから、よく売れているということでしょうか。
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