グレアム・グリーン『燃えつきた人間』は、コンゴにあるハンセン病療養所が舞台の小説である。
癩偏愛狂(レプロフィル)という言葉が出てくる。
療養所を経営している修道会の神父に療養所の院長がこんなことを言う。
「あなたは修道女が経営していたジャングルの中の小さな病院をおぼえておいででしょう。DDS(ハンセン病の治療薬)で治療することが発見されたとき、あそこには間もなく五、六人の患者しかいなくなりました。修道女たちの一人がわたしに何を言ったとお思いです?『おそろしいことですね、先生。いまにここには癩病がひとりもいなくなるんでしょうね』あそこにはレプロフィルがたしかに一人はいたわけです」
世のため、人のためにと思って身を粉にして働いていたのに、ある日突然、これからすることがなくなってしまうのでは、と不安になったわけである。
神父はこう答える。
「想像力を欠いた一人の老嬢、善を行いたい、役に立つ人間になりたいと切望している女。そういう人々のための場所は、世のなかにはあまりたくさんないのです。そこへ、彼女の天職の実践の道が、DDS錠剤の毎週の服用によって、彼女からとりあげられつつあるのです」
考えてみると、ボランティアをするためにはハンセン病患者のような苦しんでいる人がいないとできないわけで、人の不幸を待ち望む気持ちがないとは言えない。
ボランティアとは
・しなければいけない
・せずにはおれない
・やりたいからする
のどれだろうか。
ボランティアとは「自分のためにする行いが人のためにもなる行為」だというような言葉があるそうだ。
深作健太『僕たちは世界を変えることができない。』は期待せずに見に行った映画だが、拾いものでした。
題名がいい。(句点は余分)
私立医大生が、150万円でカンボジアに小学校を建てることができると知り、友だちを誘い、サークルを作る。
20人ぐらい集まったのだから、1人が一カ月に5千円ずつ貯めれば、一年で6万円、20人だから120万円。
150万円を貯めるのはそんなに難しくないと思う。
中心となるのは私立医大生の3人と、父親が医者の学生だし。
それはともかく、サークルでパーティー券を1人5万円ずつ分担すると提案したら、「そんなのできない」ともめて、「なんでカンボジアなんだ。日本にだった苦しい生活をしている人はいる」という意見も出てくる。
これはよく言われることである。
「FORUM90」Vol.119に雨宮処凛氏と太田昌国氏の対談が載っていて、雨宮処凛氏が「犠牲の累進性」ということを話している。
「たとえば日本の貧困の問題を訴えると、いやアフリカのスラムの子どものほうがもっと大変なんだ、ということをすぐ言われる。そういう言い方を犠牲の累進性と呼びます。当事者の声を上げにくくさせるという効果があるんですね」
雨宮処凛氏が石原慎太郎氏と対談したときにネット難民の話をしたら、「正社員でも過労死しそうに大変だ、みたいなことを言っても、それは非正規の人に比べたらたいしたことはないと言われるし、非正規の人が辛いと言っても、いや国内のホームレスに比べたらたいしたことない、国内のホームレスも第三世界の人に比べたらたいしたことないみたいな」、そういう反応だったそうだ。
困っている人がいるから何とかしなければということに対して、
日本→カンボジア→アフリカ
というふうにもっとかわいそうな人がいるから、日本では何もしなくていい。
ところが、アフリカへ何か支援を、となると、
アフリカ→カンボジア→日本
となって、どうしてわざわざアフリカに、となる。
結局は何もしない。
渡辺和子氏の話。
マザー・テレサの講演のあと、大学生たちが「カルカッタに奉仕に行きたい。マザーに頼んでもらえないか」と申し出た。
マザー・テレサはうれしそうな顔をして、「わざわざカルカッタまで来なくてもいいんですよ。自分のまわりにあるカルカッタで喜んで働く人になってほしい」と伝えてほしいと話したそうだ。
『僕たちは世界を変えることができない。』の大学生たちにとっては、カンボジアの子どもたちが自分のまわりにあるカルカッタだったわけである。
自己満足だろうと偽善だろうと、何もしないよりは何かすべきだ。
本田哲郎神父「祈るだけで、何か目に見えないところで神がうまくはたらいてくれると信じるというのは単なるごまかしにすぎない。アフリカのエイズ患者救済のために祈りましょう、と言ってみんなで祈る。でも、それによってその人たちが助かったか。それなのに、宗教者として何かやったかのような気になってしまう。それは宗教者の怖さ、欺瞞です」
「行動の伴わない祈りは単なる自己満足にすぎない」(「宗教者として社会の現実に向き合うとはどういうことか」「現代と親鸞」第21号)
ただし、自己満足を与える偽善的行為だと自覚しておかないといけないと思う。
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私は朱熹の「四書集注」を少しかじっていますが、孔子はハンセン病の弟子を見舞い、ただただ手を握っただけでその場では、何も語りかけせず、後で「之を亡ぼせん命なるかな」と嘆いたのだという意見を述べます。
学習会のメンバーはほとんど私より年上なので
人生経験が豊富です。その人たち、皆さん、この漢文を学習してよかったとおっしゃいます。
みんな、差別問題なども真剣に考えているんですね。自己満足で学習しているのかもしれませんが、何もしないよりずっといいと思っています。そしてこうやって学習できる環境をありがたいと思っている日々です。
このブログにあまり関係なかったかな。
北條民雄と川端康成にしても頭が下がります。
四谷怪談のお岩さんは上顎癌だったと、篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった』にありました。
差別心は人間の根源に根ざしたものだと思います。
でも、知ることで自分が差別していると認識できます。
知らないと、差別していることも知らないままです。
四谷怪談ですか、私の妹が確か「階段牡丹燈籠」が落語のレパートリーの一つです。階段なんですよ。新作かもしれません。
川端康成ですか、今キーンさんの本読んでいますが瀬戸内寂聴さんの文壇裏話より品があって面白いですね。
そうそう芥川龍之介ですが、昨日、本やさんで立ち読みしていたら、作家が彼の本読んだ感想文書いているんです。芥川賞とった作家の方たちより出久根達郎さんの感想の方が私にはぴったりきました。
この話も虚実の皮膜でしょうね。
牡丹灯籠の幽霊は足があるそうですから、そこらがオチという気がしますが、如何。
出久根達郎は直木賞作家です。
芥川龍之介とはクロスしている間柄でした。
落語をダジャレと認識しているのですか。
落研OGとしての総括を希望します。(連合赤軍風にお願いします)