戦争に必要なものはたくさんある。
武器、弾薬、食糧、兵士など、とにかくお金がかかる。
ということは、戦争によってお金が動き、もうける人がいるということである。
国内が戦場になると、国土は疲弊し、国民は巻き添えを食う。
多くの人が殺傷され、財産を失い、窮乏する。
では、戦争でもうける人はどういう人か。
戦場にいない人。
戦闘は自国の中ではしない、自分の国の外で戦争するんだったらOK。
臼井勝美『日中戦争』にこんなことが書かれてある。
新民会の小山貞知「運送界における粮棧のごとき、庶民金融における質屋のごとき種類のものまでも日本人の企業下におかんとし、いたずらに民業を奪うがごとき感をいだかしむる」
「日本人が勝手に軍の威をかり、石鹸、ペンキ、麦粉工場等々、現在動きあるものを手当たり次第合弁もしくは買収を強要する」
日本は領土的野心はないといいながら、権益を独り占めし、中国を属国扱いしたわけである。
1940年3月、汪兆銘政府の成立。
4月、支那派遣軍総司令部は布告を発表する。
その中で、「中国人に対して略奪暴行したり、理由なき餞別、饗宴を受けたり、洋車に乗って金を払わなかったり、あるいは討伐にかこつけて敵意のない民家を焼き、良民を殺傷し、財物をかすめるようなことがあっては聖戦をまっとうすることはできない」と将兵を戒めた。
1942年11月、青木一男大東亜大臣は「支那人からみれば大企業、例えば鉄山とか炭鉱とかが取られたというのならばまだよいが、小売商まで全部が日本人に奪われたと考えている。しかもこれらの日本人がみな軍に泣きついては、自分に都合のよいように事を運ぶのに腐心している」と言っている。(臼井勝美『新版 日中戦争』)
日本の占領地経営はこういう状態だったのだから、抗日運動が起こるのもやむを得ない。
保阪正康氏は『昭和史の深層』でこんなことを書いている。
「私はこれまでこの作戦に参加した将校の何人かに話を聞いている。名前はあげないが、「南京での虐殺、放火、強姦などがあったのは事実だ」と認めている」と大体が認めている。ある将校は今から二十年ほど前になるが、「この証言は決して私の名前をださないこと。そして君がその事実にふれるときも部隊名は決して書かないこと。なぜならこれから話すことが一部は私の命令で行われたと家族が知ったら、あるいは子孫が知ったら大変なことになるからだ」と言い、具体的にどのような形で虐殺が行われたかを明かしている」
ある大隊長は「そういう軍紀の乱れは将校は大体が知っていた。だが私とて皇軍の将校としてそんな恥知らずのことを認めるわけにはいかないので、そんな虐殺はなかったということにしている」と証言している。
そして、保阪正康氏は「南京戦参加の将校のオフレコを条件に語る事実があまりにもひどかったことだけは記しておきたい」と言う。
南京攻略戦に参加した大隊長の言「私の陸士時代の集まりでもこの話はしないことになっている。論争になるからね。なぜ論争になるかといえば、皇軍はそういう不法行為は決して犯さなかったというグループがいてね。彼らは大体が現場を知らないで東京にいた省部の連中だね。つまりは認めるという勇気がなく建て前でしか歴史を語れない連中だと思う」
もちろん日本だけの話ではない。
アンソニー・コステロ特技下士官 第3陸軍師団「俺たちはむしろ、こういう決定をしている大将たちに怒っている。あの人たちは地上に降りてこないし、撃たれることもない。血だらけの死体や焼かれた死体、死んだ赤ちゃん、そういうもの全部見なくてもいいんだ」(ダグラス・ラミス『要石』)
いささか古い記事です。
<南三陸町>防災対策庁舎解体の意向を町長が表明
東日本大震災の津波で多数の職員が死亡・行方不明になった宮城県南三陸町の防災対策庁舎について、佐藤仁町長は20日の定例会見で、解体する意向を明らかにした。町は津波被害を象徴する建造物として、保存を含めた庁舎の在り方を検討していたが、遺族や行方不明者の家族らが難色を示していた。
佐藤町長は会見で「将来への教訓とするため、県外からは残した方がいいとの指摘が多かったが、今後も町に住み続ける遺族らの思いを尊重し、解体の方向で進めていきたい」と述べた。
解体時期は未定。17日から遺族宅を訪問し、解体の方針を説明しているという。
夫で町職員の三浦洋さん(当時40歳)を失った妻菜緒さん(36)は「庁舎の前を通る度つらかったが、それ以上に見せ物のようになっているのが嫌だった。解体することになって良かったと思う」と話した。(毎日新聞9月20日)
私の叔父は、原爆ドーム永久保存運動があった昭和42年ごろ、「原爆ドームなんか壊せばいい」と言ってた。
20年経っても、心の傷は少しも癒えていなかったわけである。
だけど、原爆ドームが保存されてよかった。
南三陸町の庁舎も残しておいてほしい。
広島と長崎の違いは、原爆ドームが長崎にないことである。
高瀬毅『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』の「もう一つの原爆ドーム」とは、長崎に落ちた原爆によって廃墟となった浦上天主堂のこと。
1958年に取り壊されたので、写真で窺うしかない。
「無残に崩れ落ちた教会と残された一部の壁。顔の半面が黒く焼けたマリア像や、イエス・キリストの使徒たちの像。首が吹き飛んだものもある」
「廃墟が宗教施設であるだけに、観る者に「人類の終末」を感じさせる、普遍性をもった風景写真になっていた」
当時、保存を求める声は大きかった。
長崎市の原爆資料保存委員会は、1949年の発足当初から1958年まで「保存すべき」という答申を出していた。
当時の田川長崎市長も保存については前向きだった。
浦上天主堂は長崎司教区の財産だから、市の考えだけで保存できない。
「ただ、教会サイドもある時期まで市と歩調を同じくしていた形跡がある」
ところが、1958年3月14日、浦上天主堂の取り壊し作業が始まった。
なぜ浦上天主堂の廃墟が取り壊されることになったのか。
またまた広田弘毅のことです。
半藤一利、保阪正康、井上亮『「東京裁判」を読む』で、広田弘毅はこのように評されている。
半藤「私は始めから広田さんを認めない方なんです。(略)この人は大事なところで無能でしたよ。陸軍の言いなりで。責任は大きいですよ」
保坂「彼はやっぱり失態が多いですよ。一番問題なのは二・二六事件の後に首相として軍の要望を全部受け入れていったことです。(略)軍部大臣現役武官制も、陸軍から要求されて認めているし、五カ年計画だとか、みんな「ハイハイ」だもの」
半藤「「国策の基準」によって南方進出が確定したようなもんでしょう。それから日独防共協定でしょう。昭和史をあらぬ方向に動かす原点を作っています」
保坂「戦争のときにはいろんなタイプの外交官が出てきますが、昭和十年代に広田が外交官を代表する形で出てきたことは日本の最大の不幸ですね。出るべき人が出ないで、彼のような人が出たところが。重光も東郷も頑張ったけど、一番大事なときに広田があの場にいたことが一番の不幸です」
そこまで言うかというほどぼろくそ。
で、思いだしたのがアイヒマンである。
『スペシャリスト』は、1961年イスラエルで行われたアイヒマン裁判のドキュメンタリー映画。
「人類の敵」と糾弾されたアイヒマンとはどんな奴かと思ってたら、ごく普通のおじさんといった感じなのである。
極悪非道というわけではない。
裁判でアイヒマンは「命令に従ったにすぎない」と言っている。
たしかにアイヒマンは、強制収容所で何が行われているか、収容所のユダヤ人がどうなるかをわかっていたが、積極的に何かをしたわけではない。
「ユダヤ人問題の最終解決」を決定したヴァンゼー会議にアイヒマンは出席しているが、事務方の一人として座っていただけだという。
アイヒマンはユダヤ人を強制収容所に輸送する責任者で、与えられた仕事を忠実にこなす有能な管理職、つまり歯車の一つにすぎない。
そんなアイヒマンをハンナ・アーレントは「陳腐」「凡庸」と評している。
もしもアイヒマンが憎しみをぶつけることができるような悪の権化であれば、アーレントにとってよかったのかもしれない。
広田弘毅の無能とアイヒマンの凡庸は違うが、自分で考えようとせずにイエスマンに徹する点で共通しているように思う。
リヨンの人と呼ばれたクラウス・バルビーのドキュメンタリー映画が『敵こそ、我が友 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~』。
バルビーは実際に大勢のユダヤ人やレジスタンスの虐殺、拷問に関わっており、本来なら戦犯として死刑になっていたと思う。
ところがアメリカが、バルビーは共産党に対する情報網の設置に役立つ有能な人物と判断して、アメリカ陸軍情報部隊の工作員として利用した。
フランスからのたび重なる引き渡し要求のため、アメリカはバルビー一家を南米に移した。
そして、ボリビアでも重宝されたバルビーはゲバラの処刑にも関わっている。
ボリビアの政権が変わり、邪魔になったバルビーは1983年、70歳の時にフランスに引き渡された。
いくら有能であっても、歯車であるかぎり無用となれば捨てられてしまうわけである。
山口県、原発建設工事の中断を申し入れ
山口県の二井関成知事は14日、福島第一原発の爆発事故を受け、中国電力が進める上関原子力発電所について、建設工事の中断を同社に申し入れたことを明らかにした。
同社の松井三生副社長と13日に会談した西村亘副知事が、上関原発が福島第一原発と同じ沸騰水型であることに触れ、「国と東京電力の対応を見極め、必要な措置を講じてほしい」と、工事中断を求めた。松井副社長は「申し出の趣旨は重く受け止める」と答えたという。
中電によると、上関原発はマグニチュード(M)8・6の地震を想定し、4・6メートルの津波に耐えられる護岸を整備する計画。
二井知事は「今回、上関原発で想定する規模を超す地震(M9・0)が発生し、事故が起きたのだから、国や中電は今後どうするかを考えることになるだろう。工事を中断して対応してほしい」と述べた。(読売新聞3月15日)
堤防や護岸の工事をすればいいという問題ではないと思うのだが。
「祝島島民の会blog」には、山口県や上関町と中国電力とのやりとりが詳しく書かれてある。
以下、引用。
13日
山口県の西村副知事が中国電力の松井副社長と面会、上関原発建設準備工事(埋立て工事含む)に対して「きわめて慎重に対応」することを要請。
中電側は「趣旨は重く受け止める」と返答。
上関町の柏原町長も「今後の事態の推移を見きわめながら、慎重に対応するよう中国電力に要請した」とのコメントを発表。
14日
中国電力はこの日も朝から予定地で工事を続行も、抗議でこの日の作業を中止。
住民からの問い合わせに中国電力の地元事務所は「作業のことは把握していない」と回答。
また「福島は福島。上関は上関で粛々と進めていく」、「今進めている作業は福島とは関係ない」と社員が答えた、という人も。
山口県の二井知事が記者会見。
13日の中電への要請を明らかにし、「具体的なことは言わなくても、中国電力はしかるべき対応をしてくれると理解している」とコメント。
マスコミは「県知事が作業の一時中断を中国電力に要請」と報じるが、ネット上では中国電力は一般の方からの問い合わせに対して「慎重な対応を、と言われただけ。陸上の作業を慎重に進めている」と答えたとの報告も。
この日の夕方には、柏原町長があらためて工事の一時中断を中国電力に要請したとのこと。
15日
午前、上関原発の立地プロジェクトリーダーでもある中国電力の山下社長が作業の一時中断を決め、「東北関東大震災による福島第一原子力発電所等での事象を踏まえた対応について」を発表。
作業の一時中断とは言うものの、現地での発破作業など、不十分な詳細調査によって現在も行っている追加調査などは続けるとのこと。
中国電力は建設を中止するつもりはないらしいし、まして脱原発などは考えてもいないように思う。
ある会で、非核非戦と反戦反核とはどう違うのかという話になり、私もあれこれ考えたのだが、どうもよくわからなかった。
たまたまウィキペディアを見てたら、「非戦論」にこのように説明されている。
非戦論とは、戦争および武力による威嚇や武力の行使を否認し、戦争ではない手段・方法によって問題を解決し、目的を達成しようという主張、社会運動である。
なるほど、非戦とは戦に非ざるあり方、すなわち、ただ戦争に反対する(反戦)ことにとどまらず、戦争のように武力で問題を解決するのではない、別の解決法を求めることなのである。
非核も、核兵器を廃絶しましょうということだけではなく、核の平和利用(原発など)をも含めた非核、つまり核によらない生活とは何かを求めていくことだと思う。
具体的には地熱発電、風力発電といったことしか、私のぼんくらな脳みそでは思い浮かばないけれども。
大地震で被災された人に何ができるだろうかと、二、三の人と話したのだが、資格や経験のない我々は、下手なことをしても邪魔するだけになる、寄付することぐらいしかできないのではないか、という話になった。
ある人は、ささやかだが電気や石油を使う量を減らしていると言ってた。
買い占め、買いだめに走らないことも非ざるあり方だと思う。
半藤一利、保阪正康、井上亮『「東京裁判」を読む』を読んで驚いたのは、東京裁判で無罪判決を出したパール判事の評価が低いこと。
保坂「客観的な事実認定について、間違った判断をしています。それに予断と偏見もあるし……」
井上「満州事変についても「日本の謀略とは限らない」というようなことを書いています」
半藤「それから、日本での言論弾圧は当然だったと言ってるんだね。これはちょっと、いくらパールさんでも言い過ぎじゃないのと思いますね」
井上「東條をえらく持ち上げていて、「東條は正直な意見を抱き、その意見を述べるについてはなんら躊躇せず、その信念の鞏固なことを示した」なんて言っています」
保坂「宗主国を批判するときに使う材料として日本を論じる際、彼はかなり恣意的な便法を使った。そこの検証をきちんとやらなきゃいけないんだよね」
保坂「彼は基本的には全インドを代表する司法人じゃなかったんですよ。世界的なレベルの国際法の権威だなんて言われていますが、全然違う。日本では彼はオーバーに言われている。もともとはベンガルの一司法人です。インド司法界の大物が出て来れない事情があって、それで彼が出て来た」
どうなんだろうかと思い、中島岳志『パール判事』を読む。
東京裁判を否定する人は、無罪判決を出したパールのことを持ち出し、日本の行為を正当化する。
早とちりな人はパールが大東亜戦争肯定論者なのかと思うようで、靖国神社にはパール判事の顕彰碑まである。
しかし、パールは日本には戦争責任はないと言っているわけではない。
日本の植民地政策を正当化したり、「大東亜」戦争を肯定する主張など、一切していない。
パール判事は東京裁判を批判し、アメリカによる原爆投下に対しても痛烈な批判をする一方、南京虐殺を事実と認定し、フィリピンでの虐殺を「鬼畜のような性格」をもった行為だとして非難しており、日本の行為すべてを免罪したわけではない。
パール自身も「あの戦争裁判で、私は日本は道徳的には責任はあっても、法律的には責任がないという結論を下しました」と語っているそうだ。
パールは「戦勝国が戦敗国を裁く」という構図を批判したのである。
戦勝国が戦敗国に対する復讐として裁判を行うことは、平和と秩序を維持するという裁判本来の目的を崩壊させ、意義を損ねる。
パールは、戦勝国の戦争犯罪についても、戦敗国と同様、平等に裁かれるべきであるとした。
もっとも保阪正康氏たちによると、インド人であるパールの宗主国イギリスへの反発ということもあるそうだが。
では、なぜパールは無罪だとしたのか。
罪刑法定主義、そして無罪推定の原則からである。
罪刑法定主義とは、いかなる行為が犯罪であるか、その犯罪にいかなる刑罰を加えるかは、あらかじめ法律によって定められていなければならないとする主義である。
パールは通例の戦争犯罪を裁く意義を積極的に肯定するが、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であり、そもそも国際法上の犯罪として確立されていないため刑事上の「犯罪」に問うことができないとした。
東京裁判の時点で、国際法は「侵略」を犯罪とするまでに整備されておらず、いかに道義的・社会通念的に問題があろうとも、戦争の当事者を「平和に対する罪」で処刑することはできないということである。
そして犯罪が立証されないと、被告は無罪という推定無罪の原則がある。
パール判事は南京虐殺や他の虐殺事件、あるいは捕虜の虐待は事実として認定してはいるが、A級戦犯がこれらの事件の遂行を命令した証拠、もしくは不作為の罪に問うことができる証拠も存在しないと論じた。
彼らがしていないとパールが考えていたのではなく、証拠不十分のため立証されていないから罪を問えないとしたのである。
東京裁判を否定し、日本の侵略を認めたくない人たちはパール判事の判決を自分の都合のいい文脈で利用している。
たとえば田中正明氏は、田中正明編『日本無罪論』(1952年刊)の解説文に「この裁判とは別に、われわれ冷静に反省してみて、たしかに日本は侵略戦争の意図も実践もあったと思う」と書いている。
ところが田中はのちに、「パール判決書」を利用しつつ独自の「大東亜戦争肯定論」を展開している。
東京裁判の東条英機を主人公にした『プライド』という映画に、パールの長男は「傷つけ、憤らせている」として、抗議の手紙を書いた。
当初、映画関係者などから「パール判事とその判決がメインの映画を作りたい」という企画を提示されていたという。
パール判事は非暴力主義の信奉者であり、世界連邦実現を推進する立場だった。
日本に招かれて各地で講演をした時には、「平和憲法の死守」と「再軍備への反対」を強く訴えている。
何を語るかということは大切だが、どういう立脚点から語るかはより重要だと思う。
東京裁判に関するパール判事と靖国神社の意見は、東京裁判批判は同じようでも、まるっきり違った土俵での話なのである。
それにしても、保阪正康氏や半藤一利氏がそこまでパールに厳しいのかと不思議です。
被爆から五日後に、妹と叔父が相次いで避難してきた。それぞれ顔と上半身に火傷や怪我をして、ボロボロの布切れをまとい、口も利けないほどの疲れようだった。それでも命にかかわる程の重症ではなかったので、お互いが肉親に逢え、自分が一人ぼっちでない事を喜び安堵した。
妹(小学一年生7才)は登校途中の路上で被爆したらしい。前後の記憶は曖昧だったが、気が付いた時には沢山の人と一緒で川土手にいたそうだ。被災後の全市を焼き尽くした大火から助かるには川の近くに逃げる以外にはなかった。
身寄りのいない幼い女の子を心配した小母さんが面倒をみてくれたそうで、おぼろに憶えていた祖母の住まいと名前を聞き出してくれたそうだ。その方向へ行く人に託され連れられてきた。あの惨禍の中で妹がよく思い出したのと、自分の身を守るのが精一杯の時に、他人の子の面倒を厭わなかった方に深謝したい。
叔父の火傷の手当ては大変なもので、首から肩、腕から手の甲にかけて皮膚が灼(や)け落ち、赤く腫れ、化膿して異臭を放つ。手当てをしようにも薬がない。祖母が近所から聞き付けて来て、胡瓜やじゃがいもを摺りおろして傷口に貼りつける。それ以外には手当てのしようがなかった。
摺りおろした胡瓜を布に延ばして傷に貼るのだが、取り替える度に傷口に蛆が這っている。割り箸で一匹ずつ摘み取って、水で洗い流して貼り替える。生きた人間に蛆がわく、こんな事が信じられますか。
油断していると、傷口に蝿が止まって卵を産み付けたり、傷口をなめるそうだ。すると傷口がヒリヒリと痛むらしい。生身の人間としてこれ以上の屈辱はないだろう。
残る家族五人の消息は依然として不明のままだったが、まだきっと誰かが尋ねて来る。望みと確信で待ち続けたが、日を重ねる毎に望みは不安と焦りになり、絶望の淵へと沈んでしまった。捜索の手は尽くしたが、被爆後一ヵ月余りを経て消息は何一つとしてつかめなかった。あの日の強烈な閃光で一瞬に灼(や)かれ、一条のけむりと化し、天に駆け昇ったのだろう。
悪魔に魅入られた兵器。一発の核爆弾で一瞬にして我が故郷「ヒロシマ」の街を焦土と化し、数多くの人命と全ての生物をあのきのこ雲と共に天高く吹き上げ、真っ黒い雨と共に地上に叩きつけたのだ。あの一機の爆撃機B29エノラゲイ。エノラゲイの名を忘れる事はないだろう。
私と妹の二人だけが生き残り、父と姉弟五人が行方不明のままで、焼け跡から遺骨も出ず、昭和20年10月22日に行方不明のままで市役所に届け出た。
昭和20年8月6日午前8時15分本籍地にて被爆死。(五人共同じ)
被爆五十回忌を期に、五人の死は確認出来ないまま、心にわだかまっていたものを整理して、やっと墓石に名を刻み、法要をすませ、私の戦後に終止符をうった。
母と祖母の二人は被爆の惨禍を知らず、家族に見守られてねんごろに弔われた。遺骨の一片も残す事が出来ず被爆死した家族五人より、今となってはある意味で幸せだったのかとも思う。
叔父は昭和25、6年頃に別居して、しばらく後、入院。未婚のままで昭和31年に亡くなった。死因は内臓疾患と聞かされた。妹と二人だけで通夜と葬儀を営んだ。
被爆者に限らず、第二次世界大戦で数多くの尊い犠牲者を出し、その犠牲者によって支えられた今日の平和を忘れてはならない50年前の「ヒロシマ」「ナガサキ」を二度と繰り返す事のないよう祈る。
1995年8月記 八木義彦
だが、そこには焼け爛れた瓦や溶けたガラス片が散乱し、炭化した庭木を残すだけで、二日前までそこに一家団欒があったとは思えない惨状との直面だった。この惨状は決して夢ではなく、現実に私はそこに立ちつくしている。
避難していた近所の人にも会い、家族の消息を聞き回ったが、「まあ、あんた、よう生きとったのう」と言われるだけだった。他人の消息まで気配りは出来ないのだろう。唯一つだけ、人伝てで弟の猛(5才)によく似た子供が、勧業銀行ビルの焼け跡に収容されていたとのことで、急いでそちらに向かった。
途中、福屋や中国新聞社にも、兵隊さん他、大勢の救護の人が戸板やトタン板を持って出入りしている。入る時には怪我人を乗せ、出て行く戸板は遺体を運び出している。これらの遺体は身元も解らず、川原に積み上げられ、油をかけて焼かれるのだ。無名無縁のまま葬り去られる。夜になれば川原や土手のあちこちで、遺体を焼く恨みの焔が火の粉を吹き上げ、火柱となって赤く青く舞い上がり、夜空を焦がしていた。
勧業銀行にも広い一階に百人を超える人が収容されていて、左右に分けられている。片方はすでに息を引き取った人で、救援の人が遺体を調べ、身元が解れば記録に残して戸外に運びだす。
肉親を探し求めて来た人は、ビンに水を入れて一人ひとりの顔を覗き込み、声をかけて尋ね回っているが、収容された人は重症者ばかりで身動きもできず、声をかけても確かな返事は返ってこない。ただ「助けて下さい」「水、水を飲ませて下さい」と、か細い声で呻き、哀願するのがやっとだった。医者はおらず、薬などあるはずがない。水を配り、飲ませるだけで手当てはされないままだった。ここでも傷の痛みと喉の渇きに苦しみ、不安と恐怖に曝され、死を待つ以外の途は残されていない。
私も負傷者の間を縫うように、小さな子供一人ひとりに声をかけ、顔を覗き、寝返りまでさせて、「猛ではないか」「八木猛ではないか」と聞き回ったが、力なく首を横に振る子や、多くの子供は顔や手足も真っ黒で、火傷で皮膚が破れ、顔は腫れ上って、顔形で確認することはとてもできない。耳元に口を寄せ大きな声で名前を呼ぶが、みな返事ができる体力は尽きている。
私はたまらず声を上げた。「猛、猛はおらんか。八木猛はおらんか」と返事が返るのを祈る気持ちで何度も何度も、「お兄ちゃん」との返事を待って何度も何度も繰り返し呼び続けていた。
行方不明の肉親の中で、唯一人消息がつかめた弟だったので何としても捜し出してやりたかった。一人ぼっちになった自分が泣きたいほど淋しく、一刻も早く肉親の誰かに逢いたい、絶対に一人にはなりたくなかった。遺体で運び出された場所にも行ったが、そこにも何の手がかりもなかった。
今でも心残りなのは、そこに居ながら、私の声が聞こえても体を動かすことも声さえ出せなかったのではないかとの思いだ。あの時、もう少し念をいれて探してやれぱと残念でならない。
後で中国新聞社や福屋も探し歩いたが、虚しい努力に失意を重ねるだけだった。一日中、暑さと息苦しい捜索も報われる事はなく、長寿園の土手で遺体を焼く鬼火を見ながら、大勢の野宿の人達と一夜を明かした。失意と悲しみと疲れを引きずって、祖母へつらい経過を報(しら)せることになる。
祖母があれこれ矢継ぎ早にいろんな事を問いかけてくるが、何一つとして祖母に理解できるような満足な答えは出てこない。「義彦、あんた怪我をしとるで」と言われて、初めて自分を意識した。
被爆の瞬間は校舎の中だったので、幸い火傷はしていなかった。下敷きになった時に受けた傷だ。右目の上に切傷と耳たぶが切れ、そして手足に血がこびり付き、顔は真っ黒に煤け、それに気が付いてみれば裸足だった。言われるまで気付かず、またそれほど痛みを感じなかったのが不思議だ。
時間はすでに午後3時をすぎていた。祖母が麦ご飯の握り飯を作ってくれた。朝食後は何も食べていなかったので、腹は空いているはずなのに喉を通らない。しきりに喉が乾くのだ。
家族のことが気がかりである。あの時、潰れた家に何度となく呼びかけたが、返事がなく消息も解らないまま、次第に炎に包まれた我が家を後に逃げなければならなかった。その事で自分を責める気持ちを拭いきれなかったのだ。
その日は家族の内の誰一人として連絡も消息も掴めなかった。翌7日も一日中不安と期待にかられて、汽車が着く度に駅に駆けつけたが、その度に失望と不安を重ねるだけに終わってしまった。
八人もいた家族がみんな死んでしまい、自分一人になったんだ。もう親姉弟の誰にも逢えないだろうか。そんな悲しさ、淋しさが11才の私に襲いかかってくる。もうじっとしてはおられない。原爆投下二日後の8月8日になっても、誰からも何の連絡もない。もうじっと待ってはいられなくなった。
祖母に握り飯の弁当を作ってもらい、竹の皮に包み、風呂敷にくるんで汽車に乗り、広島に向かう。列車は救援や肉親探しの人で大混雑だった。切符は買わずに乗れたと思う。確か当分の間、無料だったと記憶している。
途中、大きな声で話す人はなく、みんな声を落としてひそひそ話だったが、「あの爆弾は新型の爆弾で、先にピカッと光ってドーンと音がした」と話していた。遠くから見るとそうだったのだろう。後から巨大なきのこ雲が沸き上がったのも見えただろう。
その後、日も経たずに「ピカドン」と「ヒロシマには70年間は草木も生えない」と噂が広がった。ピカドンがどんな爆弾なのか、70年も草木が生えない事がどんな事なのか、十一才の私には理解できなかった。
軍と警察は市内の被害状況が外部に漏れるのを恐れて、箝口令が出されている事も話していた。なぜなら、たった一発の爆弾で一つの都市が壊滅してしまった。この実態を国民が知り、その結果として、全てを犠牲にし、苦しみ、戦ってきた国民の戦意が低下するのを、軍部の中枢は非常に恐れたのである。
列車は戸坂駅で折り返しになり、そこからは歩いて市内に入る。その頃から風向きによって何とも云えない異臭が鼻をつく。毛糸を焦がすような、魚とゴムが一緒にいぶるような、とても表現できない異様な吐き気がする臭いだった。
救護の人の流れに付いて歩き、牛田から神田橋に辿り着くと、橋の下では小舟や筏に乗った兵隊さんが、竹竿や竿の先に鈎が付いた材木を扱う道具で、多くの水死体を集めて川原に運んでいる。
一口の水を求めて川に入り、そのまま力尽きたのであろか。大きく膨らみ腐敗が始まっている。惨めで無残で正視できるものではない。おそらく他の川でも同じ事だったろう。
神田橋の上から見渡せる市街地は、完全に焦土と化し、かろうじて倒壊を免れた幾つかのビルが途中なんの障害物もなく目に入る。その向こうには瀬戸内の島が直接すぐ近くに見え、山の緑が場違いの景色のように感じられた。
まだ市内のあちこちでは大きな建物が火を吹き、くすぶり続け、溶けた水道の鉛管からは水が吹き上げている。たった二日前まで営まれていた暮らしは、あれは一体なんだったのか。目の前に見る悲惨を極めた現実を子供の私が整理し理解することはできなかった。
まだ遺体の収容さえはかどってはいない。焼け跡の至る所に焼け残った木材とも、焼死体とも見分けが付かないくらい焼け爛れた遺体が散乱している。男女の区別もできず、ただそれが遺体と解るのは、蝿が集まっているから見分けが付く。これだけ広く焼け尽きた死の街にも蝿は出ていたのだ。
道端に掘ってあった退避壕の中に折り重なり、防火用水に頭から体半分突っ込んで、腰から下は骨になるほど焼けた遺体もある。言葉にならない惨めな果てかたをしている。たとえ肉親であっても遺体を確認することは無理だろう。目も鼻も口も耳も閉じてその場にかがみ込んでしまいたくなる。
肉親や知人の消息を尋ねる人々が、まだくすぶり続ける焼け跡になす術もなく立ち尽くしている。ほんとうになす術がないのだ。それでも私は自宅の焼け跡へ急がなければならない。
途中大八車が一台に五、六人の遺体を載せ、荒縄で縛って川土手へ運んでいた。とても仏さん扱いではなく、一人の人間に対する尊厳も敬意もない非情なものであったが、現実は一体ずつ丁寧でねんごろな扱いができない程厳しい状況でもあった。
不動院前を通り、戸坂に入ると、この辺りから家屋の被害も軽くなり、倒壊した家は見かけなくなったが、それでも戸や窓ガラスは吹き飛ばされ、屋根瓦もめくれ上がっている。
付近で被災を免れた人達が、次々と逃れてくる負傷者の救護に当たっていた。中にはお医者さんもいたが、物資不足の頃で満足な薬もないうえに、怪我人の多さに手の下しようもなかった。傷口を水で洗い、赤チンキを塗ってもらう程度だった。深い傷口は麻酔もなく縫合している。あまりの痛さに意識を失う人もいるが、それでも手当てをしてもらえる人は限られていた。
身に付けたものが破れ、裸に近い人には、シャツやズボン、夏着の薄物等を配っていたが、火傷の人には腕も足も通すことができない。皮膚が破れ、ぼろぼろになって垂れ下り、赤く腫れて汁が吹き上がっていて、着ることも着ている物を脱ぐことも出来ないで、皮膚に貼りついたシャツを鋏で切り取り、肌にべっとり付いた布切れを剥がす。後は水で洗い、冷やして赤チンキを塗るだけであった。
重傷の人は次々と戸板に乗せられてテントの中に運ばれて行く。すぐに手厚い看護をしなければ危険な状態でも、そのまま寝かされているだけであまりにも惨めだ。ただ水を与え、励ましの言葉をかけるだけで手の施しようがない。襲ってくる死を運命と諦め、じっと待っているだけなのか、悲しさを超えた虚しさと死に対する不安で声もない。
途中、救護に当たっている人達に市内の様子を問いかけられた。それぞれが市内に出かけている肉親や知人の安否を気遣っているのだ。「どこから逃げてきたのか」「何々中学の生徒をみなかったか」とか「何々学校は壊れたか」と矢継ぎ早に問い掛けられるが、誰一人として満足な答えは返せない。
その頃は国家総動員の美名のもとに、学徒動員や勤労奉仕などで近郊の人達が、市内の軍需工場や建物疎開の奉仕活動を強いられていて、その日も市内に出た人が沢山いたのだ。
芸備線の矢口駅に列車が入っていた。ここから先、広島駅の方は行くことは出来ず、三次方面に引き返す事になった列車に乗り、母の里がある中三田まで行くことにした。勿論、列車は満員で、わずかな隙間に挟まるように乗り込んだ。列車の中もデッキまで怪我人であふれている。まるで地獄行きか、火葬場直行の列車に乗っているようだ。
ホームにいる人に窓から水が入ったビンをもらった。ホームで見守る人達も他に何もして上げる事が出来ないのだ。
私は急いで家に向かった。家族がたくさんいて、父、姉、妹、弟の顔が目の前に浮かぶ。一時も早く消息を知りたい。周りの人達がそれぞれひどい怪我をしているので尚更だ。
少しでも早くと気が急くのだが、もう道路は道ではなくなっていた。電柱は倒れ、散乱した瓦や、ガラス、崩れた木材で道の見極めも出来ない。その頃の道路は道幅も狭く、両側の家の軒が道を塞ぐように折り重なって崩壊している。垂れ下った電線をかいくぐり、割れたガラスに足を滑らせたり、歩くのではなく、まるで這い進むようだったのを憶えている。学校から我が家までは三百メートル余りしかなかったが、その短い距離が日頃の十倍もの時間に感じられた。
我が家は学校より爆心地に近く、帰り着いた家はこれが我が家かと見紛うほど完全に瓦礫の山と化していた。近所が全部倒壊しているので隣との境の区別さえつかない。
我が家と見当を付けて瓦礫の下を覗き込み、力一杯の声を張り上げて親兄弟の名を呼び続けた。あちこちと呼んでは瓦礫の下を覗き、呼んでは耳を当てて物音を確かめた。何度も何度も同じ事を繰り返し呼び続けた。が、何処からも誰からも応えはなく、悲しくなるほど物音が消えている。
確かに今朝まで、わずか一時間前までは皆元気だったのに、朝ご飯も一緒に食べたのに、それなのに助けの一声も聞こえない。なぜなんだ。倒れた家の下敷きになって身動きもできず、声さえ出せないのか。中には誰もいないのか。倒れた家は中に入る事も出来ないくらいペシャンコにつぶれている。
そして近くに火が付き、こちらに燃え広がってきた。その場を離れることができず、ただ茫然と立ち尽くすしか術がない。その時、「そこにいたら逃げ遅れるぞ」という大きな声と同時に、腕を強く引っ張られてハッと我にかえり、「早く逃げろ」の声に追いやられて北に向かった。
それでも、二度も三度も後を振り返る。しだいに煙に包まれていく我が家が今でも脳裏に焼き付いて離れない。瓦礫の下敷きになって声も出せず、救(たす)けを待っていたのではないか、との思いがどうしても逃げる足を鈍らせる。救けることも出来ずに逃げる罪の意識と、逃げる姿を後からじっと見られているような気がしてならない。するとまた「ぐずぐずするな。早く逃げろ」と兵隊さんの声が飛んできた。もう危ない。今すぐここを離れないと今度は自分が火に巻き込まれてしまうだろう。
頭の中は空っぽで真っ白になり、自分の意志ではなく避難する人の流れに押されて、ただ北に向かって逃げ、山陽本線の踏み切りを渡り、長寿園の土手に出た。
その辺りには桜並木があり、土手の右手は枳殻(からたち)の生け垣で囲まれ、その向こう側には工兵隊の兵舎がある。春には土手一杯に桜が咲き競い、紅白の幕を張り、ぼんぼりが吊り下げられた。思いおもいに弁当をぶらさげて、多くの人が花見の宴を張り、夏には清流に子供たちが水遊び、魚釣り、虫取りと絶好の遊び場天国だった。川の流れは清く澄み、上流からは筏がゆっくりと下り、季節には白魚取りの四つ手網の舟も出た。
のどかな長寿園の土手が今、私の貧しい表現力で言葉では表すことなどとてもできるものではない。たとえこの世に地獄があったとしても、これほど凄惨であり残酷なものではあるまい。次々と逃れてきた多くの人々は着る物も履く物も満足な人は誰一人としていない。髪は抜け落ち、顔から手足にかけて着ていたシャツの上から灼(や)け爛(ただ)れている。その皮膚は顔から手足に垂れ下がっていて、まるでぽろ雑巾をぶら下げたように見えた。中には男女の区別さえ付かない人が、やっとここまで逃げて来て力尽き、声もなくたおれている。
この広い土手は傷つき、灼(や)け爛(ただ)れた人々で溢れ、それでもまだ猛火に追われて市街地から逃れてくる人は統々と後を絶たない。歩ける人は川に入り、頭まで水に浸かり、水を飲み、体を冷やして、また北に向かう。ここまで来て力尽き、真っ黒に汚れて倒れ込んだ人々が「水、水を下さい。お願いです。水を少し飲ませて下さい」と叫び、哀願している。傷の浅い人がタオルやシャツを水に漬けて、動けない人の口に含ませるが、一口飲んでそれきり動かなくなる人もいた。
水が欲しいのです。みんな水が欲しくて川の近くで力尽き、土手には数えきれない人が横になり、うずくまって呻き声を上げている。二、三才くらいの子供を布に巻き、抱きかかえたお母さんが、ビンに入れた水を何度もなんども口移しにのませていたが、あの子は助かったのだろうか。
川は干潮時だったのか、流れは膝から腰くらいまでで、それほど深くはなかったように記憶しているが、暑さと喉の渇きに我慢できず、流れに入りそのまま顔が上がらず、下流に流される人もあった。
市街地の火勢はますます強くなり、すでに全市が火の海に呑み込まれていた。夏の強烈な太陽でさえかすむほどの黒煙と、熱風に襲われて北に逃げるより途はない。
私も工兵橋の下を牛田側に渡り、戸坂の方角に逃げ道を決めた。そのずっと先には母の里高田郡三田村があり、そこには祖母がいた。そこを逃げ場として歩き始めると間もなく、暑い空が急に真っ黒い雲に覆われ、大粒の雨が土埃を跳ね上げて激しく襲ってきた。その時には、灼けて傷つき、熱のある体に恵みの雨に思えたが、爆風や火災で吹き上げられた灰、埃、煙で灰色の雨となり、放射能を含んだ恐怖の死の雨だったのである。