8時15分。瞬間その時、何が起きたのか全然記憶がない。ただ朦朧とした意識の中で夢でも見ているようで、高い熱にうなされて体中の節々が砕けたようで、手にも足にも力が入らないし動かすことさえ出来なかった。目は覚めていて開けているのに何も見えてこない。その間、どれくらいの時間が経過したのかは全く憶えがない。
次第に戻る意識の中で目の前のものが見えてきた。そこは今まで自分がいた教室のはずだったが、無残に押し潰されたジャングルジムの中に閉じ込められているようだった。猛烈な爆風で木造の校舎は一瞬にして完全に倒壊していたのだった。爆心地から1・5キロの近距離である。木造の校舎などひとたまりもなく崩れ去った。
折り重なる瓦礫に押さえ付けられて身動きが自由にならない。それでも首だけは動く。上の方に目を向けると、少し隙間があって明かりが見える。だが体は金縛りになったようで動かない。誰も助けに来てくれる気配がない事はわかった。
何とかここから出なければと、手を延ばし体をひねり足を踏張り、無意識のうちに覆い被さっていた机や折れた柱の間をくぐり、明かりに向かって少しづつ這い出す。するとだんだん明かりが大きくなり、やっと潰れた校舎の上に這い上がる事が出来た。二階の校舎は無残にも平屋建ての建物ぐらいに低く押し潰されていたのだ。
その間、どれだけの時間か経っていたか解らないが、その時にはすでに校舎の端から火の手が上がり燃え広がっていた。もうもうと立ち上がる煙と土埃で、あまり遠くまでは見えなかったが、潰れた屋根の上から見えたのは、小学生の子供の想像力の限界を超えるものだった。
朝方出ていた空襲警報は解除されていたので、爆弾にやられたとは思えず、それは途方もなく大きな地震が、街全体を一呑みに押し潰したように感じられた。近くで何箇所からも火の手が上がり炎を吹き上げている。
足がすくんで何かを考え、どう行動するかの意識が完全に失われて、目の前の出来事は夢ではなく現実なんだと、すぐには理解できなかった。360度、視野に入る全てが破壊し尽くされている。
だが、潰された校舎の下から助けを呼ぶ生徒の声や、兵隊さんの悲痛な叫びで現実に引き戻された。建物の下からは「たすけて、たすけて」の声が、あちこちから聞こえてくるが、どうしようにも手の出しようがない。崩れて折り重なる材木に手をかけ、渾身の力で引き上げようとしてもびくともしない。
音をたてて燃え上がる焔は、勢いを増してすぐ近くまで迫ってきた。救(たす)けを呼ぶ声は絶え間なく聞こえてくるが、子供の力はそれを叶えることが出来ない。一人も助けることは出来なかった。何一つとして出来なかったのである。
もし、自分も瓦礫から這い出せなかったら同じ運命をたどったであろう。火勢に追われるように校庭に飛び出すと、今まで元気に校庭を跳ね回っていた生徒の顔や手足が、赤黒く灼(や)けただれ、倒れ、ひざまずき、うずくまりながら必死に何かを訴えようとしている。だがそれが何を訴えているのか、声に、言葉になって出てこないし、聞こえてこないのだ。
確かに友達であるはずなのに誰だか見分けがつかない。それほど黒く酷く灼(や)け爛(ただ)れていた。顔から腕、胸、足にかけて肌の出ていた所は全部灼かれていて、着ていたものと肌との区別がつかない。真っ黒い顔で目と口を一杯に開き、手を差し伸べて声にならない苦しさを訴えてくるが、何もしてやることが出来ない。学校に駐屯していた兵隊さんもかぶっていた帽子の所だけ髪を残して、その下から線を引いたように火傷を負っていた。
校庭の大きな柳の木。この木は学校のシンボルだったが、無残にも引き裂かれ、小枝は吹き飛ばされて、太い幹が剥出しになってブスブスと煙をあげている。威風堂々と校庭の真ん中で学校の全てを知り尽くしていた大木も、強烈な熱線と爆風に抗す術をもたなかった。
比較的傷の浅い人たちもいて、それぞれ大きな声で叫んでいる。「早く火を消そう」とか「そこに人がいる。救(たす)けろ」とか聞こえてはくるが、周囲は完全に倒壊していて、常日頃から準備してあった消火器材等も下敷きになり、手のほどこしようがない。当時は空襲に備えて各戸別に防火用水槽があったが、そんな物は何の役にも立たなかった。
八木義彦さんに手記をいただいた。
ブログへ載せることを承諾してくださったので、6回に分けて連載します。
五年生 私の還らぬ灼熱(あつ)い夏 八木義彦
私は広島市立白島国民学校の五年生。その日、8月6日(月曜日)、学校は夏休みに入っていたが、その日は登校日になっていた。
白島国民学校は、市内電車の白鳥線終点電停のすぐ近くにあった。校門を入るとすぐ右側には生け垣があり、その奥には勅語奉安庫と二宮尊徳さんの銅像があった。登下校の時には皆、丁寧におじぎをして通る。校庭の真ん中には学校の守護神でもあるかのような、大きな柳の木が一本、長年の間、生徒の成長を見守っている。今朝も爽やかな風に大きな影がゆるやかに地面をはいている。何も変わった事もない。今日一日の暑さを約束したような夏の朝であった。
平和な時代であれば一学年で五組ぐらいの生徒がいたはずである。戦時中で戦況は日々、日本が不利に傾いていた。米軍機の空襲も日を追って激しくなり、その被害は子供たちにも容赦なく降りかかる。将来を託す子供たちの被害を避けるために、爆撃のない田舎に避難させる必要があった。
田舎に親戚縁故のある家庭はそちらを頼り、また縁故のない子供たちは、集団で郡部のお寺や神社、集会所等で疎開生活をした。まだまだ親の庇護が欲しい幼い子供たちが、国の命令で親元を離れて淋しい生活を余儀なくされた。何らかの事情でどちらにも行けず、学校に残った児童が各学年に20人~30人ぐらいはいたように記憶している。
校舎は木造二階建で南向きコの字型の建物だった。沢山ある教室のなかで、北側二階の一部屋が我々五年生の教室になっていた。他の学年の生徒の教室はよく憶えていないが、一学年で一クラスぐらいの生徒しか残っていなかったはずである。
空いた教室には兵隊さんが駐屯していて、屋根の上に土嚢を積み上げ、機関銃を据え付けていた。この頃には敵の艦載機のグラマンやロッキード等の戦闘機が頻繁に飛来して、急降下機銃掃射を繰り返し、市民を恐怖に陥れていたのだ。空襲警報の度に防空壕に逃げ込むのだが、敵機の機銃弾は二階の屋根から一階の床下まで突き抜ける凄さだった。
飛来するのは艦載機だけではない。テニアン島を基地とする、B29やB25等の大型爆撃機が一万メートル以上の高々度上空を、キラキラと銀紙のように光りながら長い飛行雲の尾を引いて現れる。高空の爆撃機には高射砲が砲口を開き、懸命に応射するが、残念ながら敵機に脅威を与えることは出来ず、悠々と飛び去っていく。
敵機の来襲に備えていた屋上の機関銃も、敵機に被害を与えるような威力はなかったように思う。頼りの兵隊さんも再度召集された高齢の兵隊さんばかりで、武器も旧式とあっては敵機と対等に渡り合えるはずがない。若い兵隊や最新の武器はみな戦場に送られて、全く無防備に近い街の上空を我がもの顔で飛来し、毎日のように警戒警報や空襲警報の連続だった。警報が出る度に防空壕に飛び込む。それが真夜中であろうと、食事中、いやたとえ便所にいてもである。
夜は灯火管制で電灯に黒い布を被せて、灯りを外へ洩らさないように部屋を暗くした。これは敵機の夜間爆撃の目標にならないために市街地全体を闇にしたのであった。こんな事がどれはどの役に立ったか疑わしいが、戦いに勝つためには、と信じて堪え忍ばねばならない。全ての国民が厳しい暮らしを強いられ続けたのだ。
当時我が家の家族は、父と姉三人、私と妹弟、それに叔父の八人家族で、疎開はせず市内に踏み止まっていた。母は弟の猛(昭和16年5月生)を出産後、産後の肥立ちが悪く、昭和17年4月に亡くなっている。
母は九人の子供を出産(うち二人は夭折)し、貧乏人の子沢山で子育てと姑、小姑の大家族の中で、体も心も休める事を知らず、家族に尽くし続けながら若くして(43歳)で逝った。私が8歳の春だった。線香の絶えない枕元で、祖母は私が代われたらと涙していたのを憶えている。
長兄が兵役で中国の南京に出征して、生還の保証がなく、次男の私が跡取りとして母や祖母に可愛がられた思い出も、心の片隅に残している。その祖母も被爆直前の昭和20年7月に他界した。
家業が麺類の製造卸と、広島の陸軍第五師団部隊内の酒保(兵舎内の食堂と売店)に店舗を出していた。私と妹弟の三人を除いては、みな家業に従事していたために、疎開は出来なかったのだが、それが一家の悲劇につながったのである。
学校の始業時間は8時30分だったので、核爆弾が炸裂した8時15分には、通学途中の生徒もいれば、校庭で遊んでいた友達もたくさんいた。私は学校に着いたばかりで教室の中だった。これが運命の別れ道になったのである。教室にいたために、今こうして被爆後半世紀というくぎりで手記を綴ることが出来るのだ。
その教室は二階で北向きに位置していた。その場所が校内では数少ない生き残れる場所だったと思う。何故なら、爆心地からわずか1・5キロの地点にあった学校である。もし校庭で遊んでいたら、あの熱線で一瞬にして灼かれていただろう。一階の教室にいたら、爆風で押し潰された校舎の下敷きになっていた。その時の同級生達も今消息が解るのはわずかに三人であり、他の友の生死は全く確かめようもないのである。
藤村道生『日清戦争』によると、「三国干渉は日本人に、さらなる軍備増強の必要を痛感させた。それだけではない。この戦争の結果、東洋には日本に対抗しうる国はもはや存在しない、今後は西洋の列強に対抗しうる国家にならなくてはいけないという観念を強固に植えつけた」
だけども、清からの賠償金のほとんどは軍備拡張に使われ、増税、物価騰貴により国民にとっては負担増となった。
そのころの貧困層の生活について、紀田順一郎『東京の下層社会』から引用。
残飯を食べる人たちが多くいたので、残飯屋という職業が成り立った。
明治24、5年ごろは、「上等の残飯が120匁(約450g)一銭、焦げ飯が170匁(約637g)一銭、残菜が一人前一厘だった。当時の米価相場は120匁三銭であるから、そのざっと三分の一である。残飯屋は仕入価格の五割増しで売るのであるが、細民にとっては何が何でもこれを入手しなければ生きていけないので、飯どきになると残飯屋の前に群れをなし、荷車から降ろすのをも待ちきれず、先を争うようにして二銭、三銭と買い求めていく」
深海豊二『無産階級の生活百態』(大正八年刊)という本によると、残飯屋が生まれたのは日清戦争のころだという。
「当時は兵隊の気が荒立って居て、真面目に七分三分の麦飯を喰って居る者はなく、毎日酒浸しになって居たので、炊いた飯は悉く残飯を造るようなものであったそうだ。そしてその残飯が無銭であるから、丸儲けをしたと云うは、其当時からの残飯屋の話である」
軍隊からただで残飯を仕入れていたわけだが、昭和に入ると近衛歩兵一聯隊は一貫目23銭という高値で払い下げていた。
大不況下の昭和初期、四谷鮫ヶ橋小学校児童398人のうち残飯を主食にしている者が104人。
ところが、残飯を食べることができるだけでもまだましらしい。
「大正時代に大阪の私立小学校では、残飯さえも買えない家庭の子供が」いて、「学校給食導入の端緒となっている」という。
溥儀が満州国皇帝に即位した昭和9年は大凶作で、岩手県では昭和9年10月時点で欠食児童が2万4000人、日本にそれほど余力があったわけではない。
藤村道生『日清戦争』には、労働者の置かれた状況の悲惨さが数字をあげて説明されている。
愛知県の繊維工場は労働者の拘束時間が長く、織物工場で12時間から16時間、製糸工場で11時間から17時間、旧式の紡績工場で15時間から17時間である。
通勤は不可能なので寮に寄宿することになるが、寄宿費がかかるので、見習い工の場合は賃銀が無給のものがかなり多い。
これでは『あゝ野麦峠』のほうがましである。
名古屋市とその近郊では三工場がマッチを生産していたが、470人の労働者のうち、10歳未満が87人、男工の83.1%は15歳未満、女工の42.3%は13歳未満だった。
彼らの賃金は出来高払いで、一日1銭5厘から3銭、熟練してもせいぜい5銭。
ということは、東京の残飯屋一食分である。
「政府は低賃銀を維持するために低米価を必要とした」が、そのためには安価な外米を輸入しなければならず、「朝鮮の支配と占領は、外米の安定的な供給のためにも」不可欠だったと、藤村道生氏は言う。
つまり、何のために日清戦争をしたのかの答えがこれである。
朝鮮の独立を進め、近代化を助けるというのがタテマエだが、ホンネは朝鮮の植民地化を進めて勢力を拡大したいということである。
日本の圧勝だったためか、正義の戦争と領土拡大の欲望という矛盾を自覚しなかった。
佐谷眞木人『日清戦争』では次のように指摘する。
「日清戦争は巨大な祝祭だった。このときの異様な高揚感は、その後もたびたび日本社会を包みこみ、国家を狂気の戦争へと導いた。日本がのちに太平洋戦争にいたるまで戦争を繰り返したのは、一般大衆が日清戦争を熱烈に支持したことを、起爆力としている」
日本の権益獲得というホンネと、大東亜共栄圏、五族共栄というタテマエで侵略を続けたわけである。
「日露戦争までの日本は健全なナショナリズムをもっていたが、その後におかしくなった」という司馬史観によって「隠蔽あるいは抑圧され、私たちが忘却している重大な事実があるのではないか」と佐谷眞木人氏は言う。
石光真人『ある明治人の記録』は、「武士によるクーデターの形式をとった強引な明治維新は、いわば未熟児ともいうべき、ひ弱な新政体を生んだ」と厳しい見方をしているが、明治という時代は坂の上の雲だけを見ていたわけではないのである。
新聞の書評で面白そうだと思うと、図書館でその本を借りるのだが、佐谷眞木人『日清戦争』もその一つ。
日清戦争は日露戦争と比べると、何となく影が薄いように思う。
しかし、佐谷眞木人『日清戦争』によると、「この戦争を境にして日本社会のありかたが大きく変化した」そうだ。
明治維新によって江戸時代とそれ以降の社会、文化などが断絶したのではなく、日清戦争から日本人の意識は大きく変化した。
佐谷眞木人『日清戦争』の副題は「「国民」の誕生」である。
日清戦争は「国民によって支えられ」、「「日本人」という意識を広く社会に浸透させた」のである。
つまり、自分は日本という国の国民だと民衆が意識するようになったのは明治維新ではなく、日清戦争がきっかけだったわけである。
「日清戦争を経験することによって、日本は近代的な国家になった。それは日本人の誰もが「日本国民」という意識をもち、国家のために奉仕することを誇りと思い、国家と運命をともにする政治体制だった」
日清戦争は開戦の原因がよくわからない戦争である。
で、藤村道生『日清戦争』も読んでみたのだが、「戦争の原因がきわめて複雑なうえ、直接の開戦理由が、朝鮮の内政改革というきわめて説得力の薄いものだった」とある。
もともと朝鮮の宗主権、属国化をめぐる日本と清のつばぜり合いがあったのだが、「まず開戦を決定しのちに開戦の口実を探したということがことの真相」だそうだ。
東学党の乱が起きると、朝鮮政府は清に派兵を求め、日本も天津条約を根拠として軍隊を送りこんだ。
ところが、日本軍が到着したころには乱は下火になっており、日本軍は撤兵することになりかねなかった。
しかし何もせずに撤兵したのでは、朝鮮における清の影響力が強化するし、野党や世論を抑えられないと考えた陸奥宗光外相がなかば強引に清との戦争状態に持ち込んだ。
驚いたことに、伊藤首相をはじめとする政府首脳や明治天皇は開戦には消極的だったという。
日本は清に勝てないという予測が支配的だったからである。
ところが、自由民権派、尾崎行雄や犬養毅といった野党指導者、福沢諭吉、新聞などは軍備の拡張を求め、清との戦争を煽った。
戦争が起きるのは当事国間に紛争があるからだが、まずは戦争したい人が策動し、煽り立てる言論人がいて、国民が煽られて、開戦は当然だという雰囲気が作られていくわけで、これは現在も変わらないように思う。
日露戦争では非戦論を主張した内村鑑三も開戦に積極的で、『代表的日本人』で西郷隆盛についてこう書いている。
「国はいわゆる文明開化一色となりました。それとともに、真のサムライの嘆く状況、すなわち、手のつけられない柔弱、優柔不断、明らかな正義を犠牲にして恥じない平和への執着、などがもたらされました」(佐谷眞木人『日清戦争』)
今も、戦後日本は云々、平和ボケ云々、武士道云々と言う人がいるわけで、この点もあまり変わっていない。
戦さ呆けよりいいでしょ平和呆け 永広鴨平
「日清戦争当時の日本社会は、明らかに熱狂的な興奮のなかにあって異常だった」
佐谷眞木人氏はその例をいくつか紹介しているが、それは省略。
田山花袋『東京の三十年』に、「維新の変遷、階級の打破、士族の零落、どうにもこうにも出来ないような沈滞した空気が長くつづいて、そこから湧き出したように漲りあがった日清の役の排外的気分は見事であった」とあるそうだ。
貧困層に戦争待望論があるそうだが、ちょっと怖い。
「日清戦争は全面的に正しく、また、完璧に成功した戦争だと、当時の大多数の日本人にイメージされていた」
そして、日清戦争に勝利することにより、「日本はアジアにおける唯一の先進国であり、遅れた無智な周辺の国々を指導し、正しい世界観を与え、近代化の方向に導いていく責務があるという意識」、指導者としての使命感を日本人は持つようになった。
子どものころ、父に「日本の、乃木さんが、凱旋す」というしりとりを教えてもらったが、「李鴻章のハゲ頭、負けて逃げるはチャンチャン坊、棒で叩くは犬殺し」と続く。
日清戦争から庶民が中国人をバカにするようになったわけである。
日清戦争の際、日本軍の旅順陥落のあと、日本軍による虐殺が数日間続いた。
この旅順虐殺事件を私はまったく知らなかった。
1894年(明治27年)11月21日、旅順が陥落した。
外国人記者の報道によって虐殺が世界中に知られ、日本政府は弁明を迫られる。
日本側の主張は何点かあるが、次の二点が主である。
・清国兵は軍服を脱ぎ、平服姿で市民にまぎれて抵抗した。
・日本兵捕虜の何名かが生きたまま火炙りにされたり、残酷に殺され、切り刻まれた死体を見て、日本軍は激昂した。
「(旅順)市街に突入した兵士は、三日前の十八日に土城子付近の戦闘で生け捕りにされた三人の日本兵の生首が、道路わきの柳の樹に吊されているのに、まず出合う。鼻はそがれ、耳もなくなっていた。さらに進むと、家屋の軒先に針金で吊された二つの生首があった。土城子付近での戦闘後、清国兵は残虐を極めて方法で傷をつけた第二軍兵士の死体を放置した。死者、あるいは負傷者に対して、首を刎ね、腹部を切り裂き石を詰め、右腕を切り取り、さらに睾丸などまで切り取り、その死体を路傍に放置したのであった」
報復したい気持ちはわかる。
しかし、日本軍は清国兵だけでなく、老人、女子どもを含む一般人も惨殺している。
井上晴樹氏は、大規模な虐殺が行われたのは上からの命令があったとしか思えないと推察している。
第一師団司令部付き翻訳官の向野堅一はこう語っている。
「騎兵斥候隊約二十名ガ旅順ノ土城子デ捕ヘラレ隊長中萬中尉ヲ初メ各兵士ハ皆首級ヲ切リ落サレ且ツ其ノ瘡口カラ石ヲ入レ或ハ睾丸ヲ切断シタルモノモアルト云フ実ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路将軍ハ大ニ怒リ此ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪除セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ実ニ惨又惨、旅順港内恰モ血河ノ感ヲ致シマシタ」
山地元治第一師団長の命令によって一般人をも殺したわけだが、「婦女老幼ヲ除ク」ことはしなかった。
大山巌第二軍司令官も住民が殺戮に遭ったことを認めている。
11月22日の状態。
「積屍山の如く、郊の内外死軀累々として腥風鼻を衝き、碧血靴を滑らして歩行自由ならず、已むを得ず死人の上を歩めり」
法律顧問として従軍した有賀長雄は「死体ノ総数ハ無慮二千ニシテ其ノ中五百ハ非闘戦者ナリ」と書いている。
「そこには、至る所に死体があり、ことごとく、まるで獣に噛まれたように損なわれていた。商店の屋並みには、そこの店主たちの死体が道端に積み上げられていた。(略)首を刎ねられている死体もあった。首は二、三ヤード先にころがっていて、一匹の犬がその首を囓っていた。その様を歩哨が見て笑っていた。歯のない白髪の老人が、自分の店の入口のところで、腹を切られ、腸を溢れさせて死んでいた。男たちの死体の山の下には、苦悶と嘆願のないまぜになったような格好で、女が死んでいた。女や子どもの死体があった。(略)白い髭の皺だらけの老人が喉を切られ、また目と舌を抉り取られていた」
そういう状況なのに、ある軍曹は父親への手紙に「市街には敵の死屍山をなし居る様痛快の極に御座候」と書いている。
それでも、占領直後の虐殺ならまだ言いわけもできる。
しかし、虐殺は25日まで続けられたのである。
11月23日に旅順に入ったある士官の手紙によれば、「市内は日本兵士を以て充満し支那人は死骸の外更に見当たらず此地方支那人の種子は殆んど断絶せしか」という状態だった。
ある上等兵が友人に出した手紙の一節。
「予は生来初めて斬り味を試みたることゝて、初めの一回は気味悪しき様なりしも、両三回にて非常に上達し二回目の斬首の如きは秋水一下首身忽ち所を異にし、首三尺余の前方に飛び去り、間一髪鮮血天に向て斜めに迸騰し」
捕まえた清国兵は捕虜にせず、殺している。
有賀長雄は外国人記者たちと会話の中で「私どもは、平壌で数百名を捕虜にしましたが、彼らに食わせたり、監視したりするのは、とても高くつき、わずらわしいとわかったのです。実際、ここでは捕虜にしてはいません」と言っている。
掠奪もなされた。
旅順陥落より前の平壌の戦いでも「平壌分捕の金銀十六函を大本営に廻致し」ているとのことで、軍をあげて組織的に強奪していたわけだ。
「タイムス」のコ-ウェン記者は「清国兵によって戦友を切り刻まれた兵士たちの激しい憤りに対しては、ある程度許容がなされるべきであろう。憤りは、完全に正当化される。つまり、日本人が憤激を感じたのは、しごくまともなことだ。しかし、何故、彼らは全く同じ方法で、憤りを表さなければならなかったのだろうか。それは、日本人の心が、清国人のように野蛮であるからなのだろうか」と書いている。
野蛮なのではなく、戦争とはそういうものなんだと思う。
南京大虐殺肯定派の藤原彰氏は『中国戦線従軍記』に自分の戦争体験を書いている。
藤原彰氏は1941年に陸軍士官学校を卒業して、中国へ。
1945年1月、「小さなのはずれで、一人の若い中国兵に大声で話しかけられた。彼は部隊が後退するときに取り残されたらしく、寝呆けていたのかもしれない。何を言っているのかわからないが、私のすぐそばまで近寄ってきた。私は無言で、軍刀を抜いて、彼の肩に斬りつけた。しかしあわてていたのか刃が立たず、彼が厚い綿入れの服を着ていたこともあって、恥ずかしいことに軍刀は跳ねかえってしまった。結局彼の肩を殴りつけたことになった」
南京でも、あるいはイラクでもどこでもそうだが、戦争というものは人間性を失わせる。
ごく普通の庶民だったはずの兵士たちはいつの間にか死体を見ること、人を殺すことに慣れて、何とも思わなくなったのだろう。
また、殺人や死体に対して不感症にならなかったら、いくら戦争だとはいっても人を殺せるものではないと思う。
もちろん日本だけが虐殺をしたわけではない。
ヨーロッパ諸国だってアジアやアフリカで大規模な虐殺を行なっているし、日清戦争と同じ年にトルコはアルメニア人を虐殺している。
問題はそのあと、事件にどう対処し、同種の事件を防ぐかだと思う。
旅順虐殺の責任者を処分すれば、軍司令官を更迭しなければならないが、それでは軍の士気沮喪をまねくし、政府に対する軍の反撃があるかもしれない。
伊藤博文首相は「この儘不問に付し専ら弁護の方便を執るの外なし」と、責任逃れの弁明に終始した。
当時の新聞は、旅順虐殺に関する欧米の報道に猛反発し、逆に清を非難している。
ところが台湾出兵の時でも、台湾の住民が「日本兵士による姦淫、惨酷、暴虐は天も日もなし」と訴えている。
1898年から1902年までの5年間に、台湾で叛徒1万2000人を処刑もしくは殺害したと、日本は公式に認めた。
佐谷眞木人『日清戦争』に「旅順虐殺事件は、事実関係の糾明がなされないまま不問に付されて闇に葬られた。国際社会もまた、この事件を忘れていった。
このとき、きちんとした事実解明と関係者の処分がなされていれば、事件はこの後の日本にとって有益な教訓になったことと思う」とある。
結局のところ、政府、軍、マスコミは以後も同じことを繰り返すことになったわけである。
南京事件については前に書いたが、南京事件調査研究会編『南京大虐殺否定論13のウソ』と藤原彰編『南京事件をどうみるか』を読んで、私なりに納得できたように思う。
だけども、アマゾンでは『南京大虐殺否定論13のウソ』の評価が極めて低い。
ある人は「当時の日本側の公文書や兵士の日誌に虐殺を裏付ける様な部分が数多く見つかったなどということは断じて無い。第一、そんなものがあればこんなに揉めない」と書いている。
しかしですね、『南京事件をどうみるか』で、小野賢二氏が[黒須忠信]上等兵の陣中日記の中から次の文章を引用している。
「拾二月拾六日 晴
午后一時我ガ段列ヨリ二十名ハ残兵掃湯[蕩]ノ目的ニテ馬風[幕府]山方面ニ向フ、二三日前捕慮[虜]セシ支那兵ノ一部五千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バガ[カ]リト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ。
山トナッテ居ル死人ノ上ヲアガッテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒヽ「シ」ガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ、ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍シイ出来事デアッタ」
日記に虐殺のことを書いている将兵は他にもたくさんいる。
小野賢二氏は山田支隊歩兵第六五連隊の元兵士を中心にした聞き取りと兵士が書いた陣中日記等の資料収集をしており、陣中日記は24冊入手している。
それらの資料は『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』にまとめられている。
山田支隊の捕虜殺害だけでも1万7~8000人だから、秦郁彦氏の主張する犠牲者は上限4万人だという説は崩れていると思う。
南京事件肯定派を自虐史観だと非難する人がいる。
だけど、吉田裕「国際法の解釈で事件を正当化できるか」(『南京大虐殺否定論13のウソ』)を読むと、的外れな非難だということを教えられる。
「南京攻略戦は、典型的な包囲殲滅戦として、軍事的には日本軍の勝利に終わった。このため、多数の中国軍将校が戦意を失って潰走し、追撃する日本軍によって各所で殲滅された。特に、長江上では、必死になって脱出をはかる中国軍将兵・一般市民が乗った小舟や急造の筏などが川面をうめた。これに対しては、海軍の第十一戦隊に属する砲艦が銃砲撃を加え、多数の中国軍民が犠牲となった」
吉田裕氏は「これは『戦闘』なとど決してよべるものではなく、戦意を失って必死に逃れようとする無抵抗の群衆に対する一方的な殺戮にほかならなかった」と論じた。
それに対して藤岡信勝氏は、吉田裕氏の見解を「敗走する敵を追撃して殲滅するのは正規の戦闘行為であり、これを見逃せば、脱出した敵兵は再び戦列に復帰してくる可能性があるのだから殲滅は当然であるとした」と批判しているそうだ。
吉田裕氏は具体例で藤岡信勝氏に反論している。
1945年4月、沖縄海域への水上特攻作戦に出撃した矢矧は大和などとともに米軍機の攻撃を受けて沈没した。
「この時、米軍機は、漂流する日本海軍の将兵に対して、数時間にわたって執拗な機銃掃射を加えた」
また1943年2月のビスマルク海海戦では、漂流する多数の日本兵に対して連合軍機が数日にわたって機銃掃射をくり返し、さらには出撃した魚雷艇が海上を捜索して日本兵を射殺した。
一方、1941年12月のマレー沖海戦の際に、日本機は英駆逐艦による生存者の救助作業をまったく妨害しなかった。
「藤岡氏の論法に従うならば、前者の米軍パイロットは軍人としての本分に徹した称えるべき存在であり、後者の日本軍パイロットは、非情な戦場の現実を忘れた感傷主義者ということになるだろう」
ビスマルク海海戦での事件は、「戦後オーストラリア社会では、海上を漂流中の350名の日本兵を機上掃射で殺害した空軍パイロットを戦犯として処罰すべきだとの声があげられ、大きな論争に発展している」そうだ。
そして吉田裕氏は藤岡信勝氏をこのように批判する。
「欧米の良識ある人々が連合軍側の戦争犯罪の問題を正面から取りあげ、批判している時に、藤岡氏のような人物が、それを免責するような論理を提供し、「助け舟」を出す」
「ここに、中国に対する感情的反発にこりかたまった人々の言説がおちいっている自己矛盾の深刻さがある。米軍の戦争犯罪すら追及できないような戦争観こそ、まさに「自虐史観」そのものではないだろうか」
デーヴ・グロスマン『「戦争」の心理学』は「陸軍や海兵隊は世界各国の安定化のために派遣されている。米軍が配備されるまで、たいていの人が名前すら聞いたことのなかった場所で、平和維持活動に従事しているのだ」と言うけれども、ジョシュア・キー『イラク 米軍脱走兵、真実の告発』を読むと、デーヴ・グロスマンの言ってることはきれい事だと感じる。
『イラク 米軍脱走兵、真実の告発』は、イラクに派遣され、一時帰国でアメリカに帰り、そのまま軍隊には戻らず脱走し、カナダに亡命したアメリカ陸軍元兵士ジョシュア・キーの話をまとめたものである。
ジョシュア・キーは1978年にオクラホマ州の田舎町に生まれ、寝室2つのトレーラーハウスで育った。
3歳の時に大酒飲みの父親は蒸発、3人の継父はいずれもアル中の暴力男である。
高校を卒業して結婚し、3人の子どもが生まれるが、時給7、8ドルの仕事にしかつけない。
仕方なく24歳の時に陸軍に入る。
テストを受けに行くと30人ほどの若い男女がおり、満点は90点で、合格点は30点なのにもかかわらず、ジョシュア・キー(49点)以外の全員が不合格だった。
軍隊を志願するのはジョシュア・キーのように貧しくて仕事がない、そして教育をまともに受けていない人が多い。
海外に派遣されない任務を望むと、非戦闘配置対象の基地に配属されることになったが、それは嘘だった。
新兵訓練所では「アメリカ人は地球で唯一の優秀な国民であり、すべてのイスラム教徒とテロリストは死に値する」とたたき込まれる。
「ぼくが信じろと教えられたのは、イラク人は市民ではないということだ。いや、彼らは人間ですらない」
「ぼくが戦争をしに海外へ送られる頃には、イスラム教徒はみんなテロリストで、テロリストはみんなイスラム教徒で、唯一の解決法はできる限り多くのイラク人を殺すことだと思い込むようになっていた」
ある時、練兵担当軍曹から訓練から脱落したり、命令に従わなかったりした新兵を殴れと命令される。
「軍曹が訓練兵を殴ることは許されていなかった。だから、彼らはぼくにその汚い仕事をやらせたのだ。しかしぼくは、愚かなことに、命令どおりやることを名誉なことだと思い込んでいた」
そして、ジョシュア・キーは2人の訓練兵を暴行する。
2003年4月、イラクへ行く。
衝動のままに市民を殴ったりけったりすることは日常的だし、家宅捜査の際に金、宝石などがあれば遠慮なく盗んだ。
ジョシュア・キーはいやになって、市民を殴ることや市民から盗むことをやめたが、他の者がすることは黙って見ているしかない。
4人の将校が女性たちを強姦するのにも何も言えない。
「これというはっきりした敵がいないので、われわれは、無力で抵抗できない市民に、攻撃の矛先を向けたのだ」
「イラクへ来てまだ6週間しかたっていなかったが、戦場のアメリカ兵にとって、銃撃したり殺したりすることがなんでもない軽い仕事になっていることがよくわかった」
国への土産に人間の耳や腕を持ち帰ろうとする兵士がいるように、兵士たちは感覚が鈍ってしまう。
ある時、こういう出来事を目にする。
「頭が切断された死体が4体あった。なんと2人の兵士が、切断された頭部を笑いながらけ飛ばしていた。彼らはおもしろがってやっているのは明らかだった」
このことでジョシュア・キーは国家に対する信頼の糸を断ち切り、戦場で持つべき信念を打ち砕く。
生き延びるためには一般人を殺してしまうこともあるが、それも慣れてしまう。
兵士に撃たれて死んだ10歳ぐらいの少女の遺体を親戚が引き取りに来た時、ジョシュア・キーの目から涙があふれ、恥ずかしさと罪悪感を感じた。
ところが、ジョシュア・キーは泣いたことで将官に怒られてしまう。
「まず撃て、考えるのは後だ、と言って、上官は部下に暗黙の承認を与えていた」
「もし兵士が誰かを叩きのめしたり、撃ったりしても、こう言いさえすればよかった―危険が迫っていたから」
「こうして、われわれの戦場での行動は、まったく野放し状態だった」
軍隊による殺人、暴行、略奪、強姦は日本軍だけがやったわけではないのある。
デーヴ・グロスマンが讃える戦士たちだったらイラクでどういう行動を取るだろうかと思う。
デーヴ・グロスマンは「ソビエト連邦とワルシャワ条約が消滅してからは、民主主義を守り育てることが世界中の民主主義国の目標となった。いったん民主主義国になれば予防接種を受けたも同然で、その国はほかの同種の国と戦争を始めることはなくなるからである」と言っていることは、イラクやアフガニスタンの現状を考えるとはかない希望でしかないと思う。
で、デーヴ・グロスマンは映画などで作られたヒーロー像批判をしていて、ここらは面白い。
「『カサブランカ』や『風と共に去りぬ』などの映画は、犯罪者は報われず、暴力や違法行為はつねに罰せられ、犯罪者はけっしてヒーローにならないという規制のもとに製作された。この規則は1960年代末にすたれ、かくして作られたのが『ダーティ・ハリー』であり、チャールズ・ブロンソンの『狼よさらば』シリーズであり、リチャード・ラウンドトゥリーの『黒いジャガー』だ」
「ヒーローばかりがやみくもに復讐を果たそうとするのを延々と見せられることになる。結末では、だいたいにおいて悪役のほうがルールにのっとって行動する人間として描かれ、逆にヒーローは復讐の鬼と化している。そこに至るまでに復讐のために道徳も法も踏みにじっているのだ」
たしかに悪役をやっつけるために一般人が巻き添えになってしまい、ええっと思う映画は珍しくないです。
「われわれに反対する者、それどころか憎む者でも、人間ではないように思うのはやめよう。われわれを憎む者と戦うために、憎悪に燃える必要はないし、またそれは生産的なことでもない」
とデーヴ・グロスマンと言っているのはもっともだ。
だけど、イラクで戦う兵士たちは憎悪という感情すら持てなくなっているような気がする。
ポール・ハギス『告発のとき』は実話を元にした映画。
イラク帰還兵が仲間の兵士に殺され、そして焼かれてしまう。
彼らは腹が空いたというので、その後に焼いたチキンを食べに行くのである。
肉の焼ける臭いにも無感覚になっている。
どこまで実際にあったことなのかわからないが、彼らは心のどこかが壊れてしまっているのだろう。
『「戦争」の心理学』でどうかなと思ったのは、暴力的なコンピュータゲーム、テレビや映画などのメディアの暴力表現は犯罪と関係があるとデーヴ・グロスマンが主張するとこ。
CNNの創設者テッド・ターナーの「テレビの暴力表現は、アメリカの暴力事件を増加させる最大の要因だ」という言葉を引用している。
10代の少年少女を対象にした調査で、脳スキャン画像の比較研究から研究者は次のような結論を出しているそうだ。
「最も驚くべき結果は、正常な子供であっても、メディアの暴力に頻繁に接していると、脳の論理的な部分の活動が減少するということです。これは、破壊性行動障害の子供たちの脳によく似ています」
ゲーム脳とは違うのだろうか。
デーヴ・グロスマンは、メディアやコンピュータゲームの暴力表現を問題にし、これらのものを子供に見せるべきではないと言っている。
だったら銃の規制も取りあげてほしいとこだが、しかし銃の規制についてデーヴ・グロスマンはまったく触れない。
人間であるためには、正当な理由はあるとしても殺人を認め、罪の意識を持たないようにするのではなく、敵を殺すことにためらいを感じ、罪責感を持つことは大切だと思う。
だけど、それは甘いのだろう。
以前に紹介したデーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』は、人間は人を殺すことに抵抗を感じることを実例や統計によって証明した本である。
「ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する」
「戦場に出た大多数の男たちは敵を殺そうとしなかったのだ。自分自身の生命、あるいは仲間の生命を救うためにすら」
「ごくまれな例外を除いて、戦闘で殺人に関わった者はすべて罪悪感という苦い果実を収穫する」
そのデーヴ・グロスマンの『「戦争」の心理学』は、戦士(軍人だけではなく、警察官や消防士など、そしてユナイテッド93便の乗客たちも含む)がためらわずに殺すことができ、良心がとがめたり後悔しないようにするためにはどうしたらいいかが書かれてある。
「私たちの目標は、戦闘を理解したいと望む心やさしい戦士の気持ちを傷つけることなく、戦闘におもむく人の精神を鍛えるのに役立ちたいということだ」
具体例(読者からの来信など)を語りながら、兵士や警官等の命に関わる仕事をしている人たちが、実際に人間に向けて銃を発砲しないといけないとき、逆に相手から発砲されるときにどのような反応を取るのか、戦闘中・戦闘後の生理的反応、知覚のゆがみ、戦闘の代償(PTSD)などについて説明する。
「第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争という大戦争においては、戦闘のさいに命を落とした兵士よりも、精神的外傷のために前線を離脱した兵士のほうが多かった」
戦士が人を殺しても、心に傷を受けて苦しんだり悩んだりしないようにするには「精神的に備えをすませておくことだ」というので、どうすればいいのか、どうしたらいけないのかをデーヴ・グロスマンは処方する。
すごく自信たっぷりなので説得力がある。
とはいえ、
「敵に降伏しようという気を起こさせる一番の方法は、その仲間や上官をじゅうぶんな数だけ殺すことである。敵を殺さなくてはならないという事実を、あなたは受け入れなくてはならない」
「必要ならば人を殺すことができるように、前もって心構えをするのに少しでも力になれるなら、私としてはこれにまさる喜びはない」
「正当な戦闘のさなかに人を殺したことで精神を病む、あるいは心に傷を負うと考えるのは、だいたいにおいて20世紀という時代の気取りであり、現代という時代がみずから好んでつけた心の傷である」
こんなことをあっさりと言われるとぎょっとするけれども。
人を殺さざるを得ない局面はあるわけで、訳者あとがきに「警察官にせよ兵士にせよ、国のため社会のために人を殺さざるをえない人々を、そのゆえに指弾するのはまちがっている、任務や職務で人を殺した苦しみから戦士を守り、救うのは社会の義務だということだ」とあるのはそのとおりなんだけど、そこまで言うかと思ってしまう。
デーヴ・グロスマンは他国に軍事介入するアメリカの正義を信じ、戦士たちをほめたたえることにも抵抗を感じる。
「アフガニスタンでいま着手していることを、世界中の全体主義国家や専制国家に対して実行することになるかもしれない」
「ひとつの文明にとって、これ以上に重要な、あるいは高貴な仕事はほかにない」
だけど、「ペシャワール会報」No101にはこういうことが書いてある。
アフガン人のジア・ウル・ラフマンさんとヌール・ザマーンさんは「米国がアフガニスタンの文化伝統の基本である宗教をはじめこの国の全てを破壊する意図を以って攻撃していることは、世界中の誰の目にも明らかです」と言う。
そして、現地ワーカーとして働いていた紺野道寛氏はこういう経験をしている。
診療所に装甲車四台に囲まれてアフガン人と米軍がやってきた。
「正直、米軍と懇意にしていると思われるのは、住民の誤解を生むため、一刻も早く彼らには立ち去って欲しかった」
彼らは薬を配っていると言うが、紺野氏らは薬をもらうことは断った。
「後から聞いたところ、「もし米軍を受け入れていたら、住民は敵と見なしてたよ」とのこと、冷汗が流れました。実際、同じように米軍が薬を配った診療所が、地元住民から米軍の仲間と思われて襲撃されたと聞きました」
地元住民から信頼されているペシャワール会の診療所でもこういう状況なのである。
それなのにデーヴ・グロスマンは「騎士は滅びた。その騎士が数世紀ぶりに復活したのだ。軍でも法執行機関でも、かれらは毎日防護服をまとい、盾を身に帯び、武器を吊して善行をなしている」と戦士を賛美するわけで、私としては突っ込みを入れたくなるわけです。
笠原十九司『南京事件論争史』によると、南京事件否定論は東京裁判の最終弁論で弁護側が提出した付属書「南京事件に関する検察側証拠に対する弁駁書」にすでに登場している。
①伝聞証拠説 証人は直接現場を目撃していない
②中国兵、中国人犯行説 中国軍も殺人、略奪、放火、強姦をしている
③便衣兵潜伏説 中国兵は民間服を着て潜伏していた
④埋葬資料うさんくさい説 埋葬資料の中には戦死した兵士の死体も含まれている
⑤南京人口20万人説 日本軍が攻撃する直前の南京の人口は20万人だった
⑥戦争につきもの説 戦争ではどこでも発生している
⑦略奪ではなく徴発・調達説 日本軍は代価を支払って徴発・調達した
⑧大量強姦否定説 若干の強姦はあったが、組織的な大量強姦はなかった
⑨中国の宣伝謀略説 中国の宣伝外交である
⑩中国とアメリカの情報戦略説 中国びいきの欧米人が中国のお先棒を担ぎ、アメリカもそれに与して日本批判をした
これらは現在でも南京事件否定の根拠としてくり返し使われているそうだ。
否定派の本全般について笠原十九司氏は「資料の根拠、裏付けなしに自分の推測だけで否定する」、「否定できないものは無視する」と否定派を批判しているが、そこらは南京事件否定派は超常現象肯定派と似てるように思う。
たとえば、東中野修道氏は大虐殺派が根拠にしている史料や証言に「一点の不明瞭さも不合理さもないと確認されないかぎり、(南京虐殺があった)と言えなくなる」、つまり「(南京虐殺はなかった)という間接的ながらも唯一の証明方法になる」としているそうだ。
たとえば証拠写真とされるものがニセ写真だということになれば、南京で虐殺はなかった証明になるという理屈である。
この論理はおかしいわけで、「カラスは黒い」という命題を否定するためには、白いカラスを一匹でも見つければいい。
南京事件の場合、100枚の証拠写真のうち99枚がニセ写真であっても、1枚が本当の証拠写真だったら、南京虐殺があったと証明することになる。
笠原十九司『南京事件論争史』を読んで感心するのは、史実派の人たちがそんな南京大虐殺否定派の本(手を換え品を変え、だけど同じことのくり返し)ををきちんと批判していること。
ここがおかしいと指摘するのは手間暇のかかる面倒な作業であるが、それを史実派の人たちはしているわけである。
たとえば「ゆう」という人の「南京事件-日中戦争 小さな資料集」というサイトでは、東中野修道『南京虐殺の徹底検証』のどこが間違いか、一つ一つ元の資料にあたって検証している。
そして、ゆう氏は「東中野氏のこの本は、捻じ曲げ引用、勝手な解釈、対立データの無視、一方的な記述―「禁止事項」のオンパレードでした」と言っている。
なぜ否定本批判をするかというと、笠原十九司氏によると「公刊される否定説本に批判を加えないと、「南京大虐殺派が否定できないのは事実と認めたからである」ということになり、否定派の「ウソ」が罷りとおることが懸念されたからである」
しかし、南京虐殺否定派は主張が論破されて反論ができなくなると、論点をずらして新たな否定論を展開する。
その新たな論点を批判しないと、批判できないからだ、こちらの主張を認めたと宣伝するので、そこでやむなくまた批判する。
そしたら別の人が同じ主張を言い出すetc、というモグラ叩き。
なんだか超常現象肯定派と懐疑派の論争みたいである。
笠原十九司氏は「否定派はすでに破綻した否定論の繰りかえしと、新たな否定論の「創作」という二つの方法で、否定本を多量に発行しつづけているので、世間一般は「南京事件論争」は決着がつかずにまだつづいていると錯覚することになる」と指摘する。
だけども、「南京事件否定派を批判するために、南京事件史実派いわゆる「南京大虐殺派」が、資料発掘、収集に努力し、その成果を資料集や歴史書にして刊行してきた結果、南京事件の全体的歴史像の解明は飛躍的に進んだ」そうで、どんなことにもムダはないんだなと思った。
8月6日に広島で行われた田母神俊雄氏の講演の日程変更を広島市長が要請したが、その要請は憲法の「集会の自由」を脅すものだとか、言論弾圧だのといった批判があった。
ところが、日本軍による南京虐殺を認める集会や展示などに保守派から圧力がかかることがある。
圧力があった例を笠原十九司『南京事件論争史』では以下のようにあげている。
1996年6月、長崎原爆資料館の「日中戦争と太平洋戦争」のコーナーの年表に「1937年12月南京占領、大虐殺事件おこる」と書かれ、その下に写真が掲示された。
これに対して「日本を守る県民会議」「長崎日の丸の会」さらに自民党長崎市議団などが、原爆資料館に南京大虐殺や七三一部隊など侵略、加害の展示をなぜしたのかと抗議し、写真削除を迫り、この問題を産経新聞が取りあげて報道した。
1998年、映画『南京1937』を上映中のスクリーンを右翼が切り裂く事件が発生、街宣車が妨害活動をしたので、中途で上映を打ち切らざるをえなくなった。
一般の映画館では上映が困難になり、全国の市民団体が公共施設で上映会を実施したが、各地で右翼が妨害活動を繰り広げ、柏市では市当局に会場を使わせないよう圧力をかけて妨害に成功している。
2002年、鹿児島県県議会は中国へ訪れる県立高校の修学旅行の訪問先から南京大虐殺記念館を除くよう求めた陳情書を採択した。
2004年、南京事件の場面を描いた『週刊少年ヤングジャンプ』に連載中の本宮ひろ志「国が燃える」に対し、右翼活動家が抗議をくり返し、集英社はマンガの削除・修正を約束した。
さらに地方議員グループの抗議、街宣車の威圧行動、メール、ファックス、電話などでさまざまな圧力が加えられ、「国が燃える」は一時休載し、編集部・本宮ひろ志連名で「お詫び」の文章を発表した。
産経新聞などメディアはこうした言論思想の弾圧をも抗議すべきではないかと思う。
李纓『靖国』に対し、反日映画だという批判が起こり、上映を中止した映画館があった。
しかし、水島総『南京の真実』の上映反対運動はあったのだろうか。
笠原十九司『南京事件』Ⅲ章の扉にある、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」というキャプションをつけた写真は、実は「日本兵に守られて女性が野良仕事からへ帰る」写真だとの批判を受けた。
これに対し、笠原十九司氏はミスを認め、岩波書店は写真を差し替えるとともに、初版本の取り替えに応じた。
同じように写真誤用をした森村誠一『続・悪魔の飽食』は右翼からの批判、圧力で出版停止となっている。
しかし、「拙著(笠原十九司『南京事件』)の場合は、さいわいなことに、岩波書店側が圧力、攻撃に屈せずにしっかりと対応し、出品一時停止と取り替えの処置をとって、出版停止にはいたらなかった」
プリンスホテルが日教組集会の会場使用を拒否したり、慰安婦問題を取りあげたNHKの番組が改竄されたりといったことがあるが、政治家の圧力や右翼の抗議に対してメディアや行政は過剰反応を示してしまいがちである。
ここらも産経新聞や「正論」などは問題にしてほしいと思う。