母の里も男はみんな兵隊に行き、祖母一人で留守を守っていた。中三田駅から祖母の家に着く間に、父か誰か姉弟が先に避難しているかと期待していたが、その期待は完全に裏切られた。
祖母があれこれ矢継ぎ早にいろんな事を問いかけてくるが、何一つとして祖母に理解できるような満足な答えは出てこない。「義彦、あんた怪我をしとるで」と言われて、初めて自分を意識した。
被爆の瞬間は校舎の中だったので、幸い火傷はしていなかった。下敷きになった時に受けた傷だ。右目の上に切傷と耳たぶが切れ、そして手足に血がこびり付き、顔は真っ黒に煤け、それに気が付いてみれば裸足だった。言われるまで気付かず、またそれほど痛みを感じなかったのが不思議だ。
時間はすでに午後3時をすぎていた。祖母が麦ご飯の握り飯を作ってくれた。朝食後は何も食べていなかったので、腹は空いているはずなのに喉を通らない。しきりに喉が乾くのだ。
家族のことが気がかりである。あの時、潰れた家に何度となく呼びかけたが、返事がなく消息も解らないまま、次第に炎に包まれた我が家を後に逃げなければならなかった。その事で自分を責める気持ちを拭いきれなかったのだ。
その日は家族の内の誰一人として連絡も消息も掴めなかった。翌7日も一日中不安と期待にかられて、汽車が着く度に駅に駆けつけたが、その度に失望と不安を重ねるだけに終わってしまった。
八人もいた家族がみんな死んでしまい、自分一人になったんだ。もう親姉弟の誰にも逢えないだろうか。そんな悲しさ、淋しさが11才の私に襲いかかってくる。もうじっとしてはおられない。原爆投下二日後の8月8日になっても、誰からも何の連絡もない。もうじっと待ってはいられなくなった。
祖母に握り飯の弁当を作ってもらい、竹の皮に包み、風呂敷にくるんで汽車に乗り、広島に向かう。列車は救援や肉親探しの人で大混雑だった。切符は買わずに乗れたと思う。確か当分の間、無料だったと記憶している。
途中、大きな声で話す人はなく、みんな声を落としてひそひそ話だったが、「あの爆弾は新型の爆弾で、先にピカッと光ってドーンと音がした」と話していた。遠くから見るとそうだったのだろう。後から巨大なきのこ雲が沸き上がったのも見えただろう。
その後、日も経たずに「ピカドン」と「ヒロシマには70年間は草木も生えない」と噂が広がった。ピカドンがどんな爆弾なのか、70年も草木が生えない事がどんな事なのか、十一才の私には理解できなかった。
軍と警察は市内の被害状況が外部に漏れるのを恐れて、箝口令が出されている事も話していた。なぜなら、たった一発の爆弾で一つの都市が壊滅してしまった。この実態を国民が知り、その結果として、全てを犠牲にし、苦しみ、戦ってきた国民の戦意が低下するのを、軍部の中枢は非常に恐れたのである。
列車は戸坂駅で折り返しになり、そこからは歩いて市内に入る。その頃から風向きによって何とも云えない異臭が鼻をつく。毛糸を焦がすような、魚とゴムが一緒にいぶるような、とても表現できない異様な吐き気がする臭いだった。
救護の人の流れに付いて歩き、牛田から神田橋に辿り着くと、橋の下では小舟や筏に乗った兵隊さんが、竹竿や竿の先に鈎が付いた材木を扱う道具で、多くの水死体を集めて川原に運んでいる。
一口の水を求めて川に入り、そのまま力尽きたのであろか。大きく膨らみ腐敗が始まっている。惨めで無残で正視できるものではない。おそらく他の川でも同じ事だったろう。
神田橋の上から見渡せる市街地は、完全に焦土と化し、かろうじて倒壊を免れた幾つかのビルが途中なんの障害物もなく目に入る。その向こうには瀬戸内の島が直接すぐ近くに見え、山の緑が場違いの景色のように感じられた。
まだ市内のあちこちでは大きな建物が火を吹き、くすぶり続け、溶けた水道の鉛管からは水が吹き上げている。たった二日前まで営まれていた暮らしは、あれは一体なんだったのか。目の前に見る悲惨を極めた現実を子供の私が整理し理解することはできなかった。
まだ遺体の収容さえはかどってはいない。焼け跡の至る所に焼け残った木材とも、焼死体とも見分けが付かないくらい焼け爛れた遺体が散乱している。男女の区別もできず、ただそれが遺体と解るのは、蝿が集まっているから見分けが付く。これだけ広く焼け尽きた死の街にも蝿は出ていたのだ。
道端に掘ってあった退避壕の中に折り重なり、防火用水に頭から体半分突っ込んで、腰から下は骨になるほど焼けた遺体もある。言葉にならない惨めな果てかたをしている。たとえ肉親であっても遺体を確認することは無理だろう。目も鼻も口も耳も閉じてその場にかがみ込んでしまいたくなる。
肉親や知人の消息を尋ねる人々が、まだくすぶり続ける焼け跡になす術もなく立ち尽くしている。ほんとうになす術がないのだ。それでも私は自宅の焼け跡へ急がなければならない。
途中大八車が一台に五、六人の遺体を載せ、荒縄で縛って川土手へ運んでいた。とても仏さん扱いではなく、一人の人間に対する尊厳も敬意もない非情なものであったが、現実は一体ずつ丁寧でねんごろな扱いができない程厳しい状況でもあった。
祖母があれこれ矢継ぎ早にいろんな事を問いかけてくるが、何一つとして祖母に理解できるような満足な答えは出てこない。「義彦、あんた怪我をしとるで」と言われて、初めて自分を意識した。
被爆の瞬間は校舎の中だったので、幸い火傷はしていなかった。下敷きになった時に受けた傷だ。右目の上に切傷と耳たぶが切れ、そして手足に血がこびり付き、顔は真っ黒に煤け、それに気が付いてみれば裸足だった。言われるまで気付かず、またそれほど痛みを感じなかったのが不思議だ。
時間はすでに午後3時をすぎていた。祖母が麦ご飯の握り飯を作ってくれた。朝食後は何も食べていなかったので、腹は空いているはずなのに喉を通らない。しきりに喉が乾くのだ。
家族のことが気がかりである。あの時、潰れた家に何度となく呼びかけたが、返事がなく消息も解らないまま、次第に炎に包まれた我が家を後に逃げなければならなかった。その事で自分を責める気持ちを拭いきれなかったのだ。
その日は家族の内の誰一人として連絡も消息も掴めなかった。翌7日も一日中不安と期待にかられて、汽車が着く度に駅に駆けつけたが、その度に失望と不安を重ねるだけに終わってしまった。
八人もいた家族がみんな死んでしまい、自分一人になったんだ。もう親姉弟の誰にも逢えないだろうか。そんな悲しさ、淋しさが11才の私に襲いかかってくる。もうじっとしてはおられない。原爆投下二日後の8月8日になっても、誰からも何の連絡もない。もうじっと待ってはいられなくなった。
祖母に握り飯の弁当を作ってもらい、竹の皮に包み、風呂敷にくるんで汽車に乗り、広島に向かう。列車は救援や肉親探しの人で大混雑だった。切符は買わずに乗れたと思う。確か当分の間、無料だったと記憶している。
途中、大きな声で話す人はなく、みんな声を落としてひそひそ話だったが、「あの爆弾は新型の爆弾で、先にピカッと光ってドーンと音がした」と話していた。遠くから見るとそうだったのだろう。後から巨大なきのこ雲が沸き上がったのも見えただろう。
その後、日も経たずに「ピカドン」と「ヒロシマには70年間は草木も生えない」と噂が広がった。ピカドンがどんな爆弾なのか、70年も草木が生えない事がどんな事なのか、十一才の私には理解できなかった。
軍と警察は市内の被害状況が外部に漏れるのを恐れて、箝口令が出されている事も話していた。なぜなら、たった一発の爆弾で一つの都市が壊滅してしまった。この実態を国民が知り、その結果として、全てを犠牲にし、苦しみ、戦ってきた国民の戦意が低下するのを、軍部の中枢は非常に恐れたのである。
列車は戸坂駅で折り返しになり、そこからは歩いて市内に入る。その頃から風向きによって何とも云えない異臭が鼻をつく。毛糸を焦がすような、魚とゴムが一緒にいぶるような、とても表現できない異様な吐き気がする臭いだった。
救護の人の流れに付いて歩き、牛田から神田橋に辿り着くと、橋の下では小舟や筏に乗った兵隊さんが、竹竿や竿の先に鈎が付いた材木を扱う道具で、多くの水死体を集めて川原に運んでいる。
一口の水を求めて川に入り、そのまま力尽きたのであろか。大きく膨らみ腐敗が始まっている。惨めで無残で正視できるものではない。おそらく他の川でも同じ事だったろう。
神田橋の上から見渡せる市街地は、完全に焦土と化し、かろうじて倒壊を免れた幾つかのビルが途中なんの障害物もなく目に入る。その向こうには瀬戸内の島が直接すぐ近くに見え、山の緑が場違いの景色のように感じられた。
まだ市内のあちこちでは大きな建物が火を吹き、くすぶり続け、溶けた水道の鉛管からは水が吹き上げている。たった二日前まで営まれていた暮らしは、あれは一体なんだったのか。目の前に見る悲惨を極めた現実を子供の私が整理し理解することはできなかった。
まだ遺体の収容さえはかどってはいない。焼け跡の至る所に焼け残った木材とも、焼死体とも見分けが付かないくらい焼け爛れた遺体が散乱している。男女の区別もできず、ただそれが遺体と解るのは、蝿が集まっているから見分けが付く。これだけ広く焼け尽きた死の街にも蝿は出ていたのだ。
道端に掘ってあった退避壕の中に折り重なり、防火用水に頭から体半分突っ込んで、腰から下は骨になるほど焼けた遺体もある。言葉にならない惨めな果てかたをしている。たとえ肉親であっても遺体を確認することは無理だろう。目も鼻も口も耳も閉じてその場にかがみ込んでしまいたくなる。
肉親や知人の消息を尋ねる人々が、まだくすぶり続ける焼け跡になす術もなく立ち尽くしている。ほんとうになす術がないのだ。それでも私は自宅の焼け跡へ急がなければならない。
途中大八車が一台に五、六人の遺体を載せ、荒縄で縛って川土手へ運んでいた。とても仏さん扱いではなく、一人の人間に対する尊厳も敬意もない非情なものであったが、現実は一体ずつ丁寧でねんごろな扱いができない程厳しい状況でもあった。
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