三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

世界こどもサミット

2018年07月11日 | あやしい教え・考え

安倍昭恵氏が発起人の「世界こどもサミット」にKAMIスタイルという新興宗教が深く関わっていると、「週刊文春」が報道しました。
http://bunshun.jp/articles/-/8039

「世界こどもサミット」のHPを見ますと、こんな説明がされています。 

世界こどもサミットとは?
こどもは地球の宝物、その可能性は無限大です。
こども達の中には、既に自分の生きる道や、行動指針、
生まれてきた意味などが、大人から教わらなくても理解している子がいます。(略)

http://wcs-tokyo.com/guideline/

「生まれてきた意味」とは何でしょうか。
15人のこどもスピーカーのうち、4人は胎内記憶や前世の記憶があるそうです。 

斎藤希望さん(さいとう のの)
内記憶を聞こうと3歳頃から5歳頃まで母が聞き出そうとトライしたが全く話す気配もなく、何のことかわからない感じだった。小2の時、突然胎内記憶を2時間くらい話し始めた。
羽生すみれさん 11歳 出身地 東京(はにゅう すみれ)
胎内記憶を持ち、生まれた時から「かみさま」「天使さん」「お腹の中の赤ちゃん」 「見えないけれど温かく見守ってくれる存在」と会話している。
小木曽健登さん 13歳 出身地 名古屋(こぎそ けんと)
幼少の頃、「僕がママを選んだんだよ、空からママを見ていてこの人がいいって思ってジャンプしたんだ~」と言ったり、産まれた直後NICUに居た時の記憶を話すなどしていた。映画「かみさまとのやくそく」を見たことで、前世の記憶を思い出す。
中塚彩葉さん 13歳 東京(なかつか いろは)
2才頃、母親からお腹の中にいた時の事を聞かれ、胎内記憶、生まれる前の事を話し始めた。どうやって親を選び生まれてきたか、生まれる前にどこにいて何を学んだか、何のために生まれて来たか、といった話を日常の中で自然に話していた。

『かみさまとのやくそく』の池川明氏と子供たちが、世界こどもサミットで胎内記憶や中間生について話し合いをしています。

私としたら、こんなことを話すような集まりはうさんくさいと思うのですが。

胎内記憶や前世の記憶を思い出すということは、スピリチュアルの考えの一つです。
生まれ変わりを繰り返しながら霊性を向上させるのが生まれてきた目的である。
向上するために、自分で課題を持ち、自分で両親や環境を選んで生まれてくる。
たとえば、障害を持ったり子供を亡くしたりすることは、そういうつらい経験をすることによって学び、自分自身を向上させるためである。

これはスピリチュアルの世界ではよく聞く話ですが、おかしな点はたくさんあります。
『かみさまとのやくそく』の上映運動をしている人と会うことがあったので、「親から虐待されて殺される子供もそういう親を選んで生まれてきたのか」と尋ねたら、「そんなことは考えたことがなかった」と言ってました。
身分差別でも同じで、自分で選んで生まれたわけですから、差別は社会の問題ではなく、自己責任ということになります。
さらには、虐待した親や差別する人に、いい経験をさせてもらったと感謝しないといけません。

実際、江原啓之氏は「自分は殺されたことにより、殺された心の痛みを理解できて、二度と人を殺さない魂になれる。だから、その人のおかげで自分はそれだけ向上できるんだから、そして自分のことでカルマを背負ってくださるから、その人を愛さなきゃいけない」なんてことを言っています。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/a8d36437a4ed4ddcfbe21b66e0eed5c1
だったら、オウム真理教事件の被害者も麻原彰晃たちに感謝し、愛さなくてはいけません。
死刑囚も、死刑という得がたい経験をするために生まれてきたのか。
安倍昭恵氏や池川明氏たちはそこらをどのように考えているのでしょうか。

福島史織氏が自身のフェイスブックに、安倍昭恵氏は「神の存在に近い」と書いていることについて、知人が「オウム事件がなぜ起きてしまったのか分かっているのか、いや、分かっていないのだろうなと思う」と指摘してました。
私はそのことに気づかなくて、ああ、そうだったと思いました。

「神の存在に近い」ということ、これは単なるおべんちゃらかもしれませんが、もしも本当にそう思っているとしたら、生き神信仰みたいなもので、問題ありです。
つまり、麻原彰晃を最終解脱者として絶対視したオウム真理教の信者と変わりません。
自分を神に祀り上げようとしている人なんて信用しないほうがいいし、愛想で言ったのなら、これまたろくな人間ではないと、誰かが安倍昭恵氏に忠告すべきだと思います。

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オウム真理教事件 7人の死刑執行

2018年07月07日 | 死刑
死刑囚写真に次々「執行」シール TV演出に疑問の声も
オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(63)ら教団元幹部7人の死刑が執行された6日、テレビ各局は朝から一斉に放送を臨時ニュースに切り替えた。同じ日に7人執行という過去にない展開を受け、テレビ局に入ってくる情報は刻々と変化。取材で得た執行状況をリアルタイムで伝えたり、死刑囚の顔写真に執行が済んだことを示すシールを貼ったりするなど異例の報道になった。SNS上では、違和感を訴える声も相次いだ。(略)
「執行が次々と始まっています」(フジテレビ)、「松本死刑囚以外に5人以上の死刑が執行される見通し」(日テレ)、「きょう松本死刑囚を含む7人の死刑を執行する予定であることが関係者への取材で分かりました」(NHK)。フジは「井上死刑囚の死刑執行」「早川死刑囚の死刑執行」などと情報が入るたびに、赤地に白抜きのテロップを次々に表示した。(朝日新聞7月6日)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180706-00000143-asahi-soci

今までは執行が終わったあと、誰を執行したかを発表していました。
ですから、今回も7人がほぼ同じ時刻に執行されたのかと思ってましたら、そうではありませんでした。
麻原彰晃の執行がまず報道され、そのあと、次は誰それが執行されたと伝えています。
まるで選挙速報のように、誰それさんが当確、次はどなたでしょうか、と実況中継してたわけです。
 
http://健康法.jp/archives/41089

「地下鉄サリン事件被害者の会」代表世話人の高橋シズヱさんは次のように語っています。

麻原の執行に関して、私は当然と思っています。(略)そのあと井上、新実、土屋、中川、遠藤、早川という名前を聞いたときにはやっぱり動悸がしました。今後のテロ防止という意味で、もっと彼らには色々なことを話してほしかったし、専門家も死刑囚に対していろいろなことを聞いてほしかったということがあります。それができなくなってしまったのという心残りはあります。

http://blogos.com/article/309260/

坂本堤弁護士のお母さん坂本ちよさんのコメントです。

私も麻原は死刑になるべき人だとは思うけれど、他方では、たとえ死刑ということであっても、人の命を奪うことは嫌だなあという気持ちもあります。

https://www.asahi.com/articles/ASL764RXRL76UTIL02P.html

坂本都子さんのお父さん大山友之さん。

殺してやりたいと自分の中で何度も言ってきた。死刑執行は当たり前と本当は言いたいけれど、良かったという思いはない。

お母さんの大山やいさん。

私は死刑を喜ぶ人間ではない。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180707-00000003-ibaraki-l08
被害者遺族は単純に死刑を喜んでいるわけではありません。

法務省や検察の人の中にも死刑廃止を考えている人はいるようです。

ある法務省幹部は「冤罪というリスクを抱えている以上、終身刑導入と引き換えにであれば、死刑廃止も構わないという法務官僚は一定数いる」と明かす。
ある検察幹部は(略)「今回の執行が存廃論議をスタートさせるきっかけとなる可能性はある」と話した。(中国新聞7月7日)

大規模の死刑執行に、非人道的という批判もあったそうです。

独シュピーゲル電子版は「日本は死刑を堅持する数少ない先進国だ」としたうえで、「アサハラの死は、支持者には殉教と映り、新たな指導者を生みかねない」とする専門家の声を紹介した。
欧州連合(EU)加盟28カ国とアイスランド、ノルウェー、スイスは6日、今回の死刑執行を受けて「被害者やその家族には心から同情し、テロは厳しく非難するが、いかなる状況でも死刑執行には強く反対する。死刑は非人道的、残酷で犯罪の抑止効果もない」などとする共同声明を発表した。そのうえで「同じ価値観を持つ日本には、引き続き死刑制度の廃止を求めていく」とした。(略)
今回の死刑執行を伝えた米CNNは、日本の死刑執行室の写真をウェブに掲載。「日本では弁護士や死刑囚の家族に知らせないまま、秘密裏に死刑が執行される」と指摘した。またロイター通信は、「主要7カ国(G7)で死刑制度があるのは日本と米国の2カ国だけだ」と指摘。


執行の前日の5日夜、安倍総理や上川法務大臣ら自民党国会議員50人が赤坂宿舎での「赤坂自民亭」に出席し、大いに盛り上がったそうです。

赤坂自民亭は党幹部と中堅・若手議員の距離を縮める目的で有志の世話人が運営し、「女将(おかみ)」を上川陽子法相、「若女将」を小渕優子元経済産業相らが務めている。「亭主」には竹下亘総務会長らも名を連ねる。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180706-00000013-san-pol

 

執行が決まったのは3日前です。
いかに重罪を犯したとはいえ、7人もの人間を処刑することがわかっているわけですから、「懇談を楽しんだ」とは思えません。
http://健康法.jp/archives/41083

なぜこの時期に執行したのかと取り沙汰されています。
7月5日に水道法改正され、水道事業の運営権を民間に売却できることになったこと、あるいは私立大学研究ブランディング事業にからむ収賄容疑で文科省の局長が逮捕され、加計学園の2校が私立大学研究ブランディング事業に選ばれていたことが明らかにされたこと、そうしたことから国民の目をそらせるためじゃないかと邪推しております。

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クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』

2018年06月28日 | 映画

クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』は、2015年、アムステルダムからパリ行きの列車に乗った幼なじみ3人が、銃を乱射しようとしたテロリストを取り押さえたという事件を描いた映画。
本人たちが自分自身の役で出演しています。

3人は子供のころからの友達で、サバイバルゲームという戦場ごっこが好きな戦争オタク。
スペンサーとアレクは軍隊に入ります。
アレクはアフガニスタンに駐留しましたが、友人への電話で「退屈だ」と言ってるのにはいささか驚きました。

テロリストが銃を構えるのを見たスペンサーはテロリストに向かって突進します。
アメリカの高校で起きた銃の乱射事件で、ホワイトハウスを訪れて銃規制を求めた高校生に、トランプ大統領は「銃に熟練した教師がいれば攻撃されてもすぐに解決できる」と述べています。
http://www.news24.jp/articles/2018/02/22/10386263.html
同じ論法で、軍隊で訓練を受けたからテロリストに立ち向かえたんだ、テロを防ぐためには民間人も軍隊で訓練を積むことが必要だということになります。

リチャード・リンクレイター『30年後の同窓会』は、2003年、バグダッドで21歳の息子が戦死した男が、ベトナムで一緒に戦った元海兵隊員2人と再会して、という話です。
3人とも戦争で戦ったこと、そしてアメリカという国に誇りを持っています。
以前だったら、反戦、厭戦映画になるような題材ですが、戦争や国家に対する考えが大きく変わっていることの表れでしょう。

もう一つ、『15時17分、パリ行き』を見てて、あれっと思ったのが、スペンサーとアレクが中学の校長から「ADDだから薬を飲みなさい」と言われ、怒った母親が転校させたということです。
転校先の私立中学はキリスト教福音派のようです。

『ワンダー 君は太陽』では、自宅で母親から教育を受けてた主人公は5年生の時に私立中学校に入ります。
学校の門には「pro school」とありましたが、どういう学校なんでしょうか。
主人公をいじめてた子が停学になると、怒ったいじめっ子の母親が「寄付をたくさんしているのに」などと文句を言って、息子を転校させます。
アメリカでは、こんなふうに簡単に転校するのは珍しくないのでしょうか。

『15時17分、パリ行き』ですが、3人とも熱心なキリスト教徒の家庭で育ちました。

彼らは単に自分たちがいるべき場所にいたのだと感じているようだね。3人の中には違う捉え方をしている青年もいる。例えばアンソニーの父親はサクラメントの教会で牧師をしている。だから彼には宗教的な背景があって、今回の出来事を神が見守っ力を貸してくれたのだと考えているんだ。3人とも少しずつ捉え方が異なっている。でも基本は同じで運が良かったと思っている。運命が味方してくれたとね。

 

しかし、スペンサーやアレクもインタビューでは、アレックスのように神について語っています。

アレク「衝動的な行動だったし、神の見守りで生き延びられた」
アレク「テロに遭遇する確率は低い。しかも命も落とさずテロに立ち向かい、あの時あの場にいたことは単なる偶然とは思えない。
スペンサー「キリスト教の家庭で育ったから、神は常に身近な存在だ。神は乗り越えられる試練しか与えないと考えてる。あの瞬間それを思い出したよ」
アレックス「運命が僕らを導いた。僕らは使命を与えられたんだ。今はあの時の冷静さが理解できる。神が守ってくれたんだよ」
スペンサー「あの時の僕らはまさに神の使いだったんだ。善き行いができて光栄だね」



映画の中でも、アレックスが「自分が動かされると感じたことは?」とスペンサーに尋ねると、「生きるっていうことは大きな目的に向かっているんじゃないかと思う。自分でもわからないけど、運命に押されている気がする」(たぶん)と答えていたり、アフガニスタンに向かうアレクに母親が「いつか大きなことをするような予感がする」(たぶん)と声をかけます。
クリント・イーストウッドもこのように語っています。

「その時、何を考えた?と尋ねると彼は『何も』と答えた。何も考えずに、高性能ライフルを持った男に突っ込んだんだ。理論的には勝ち目のない賭けだが、テロリストが引き金を引くとライフルは不発だった。それは奇跡じゃないのかって? わからないね。でも、スペンサーはきっと自分は神に愛されていると思ったんじゃないかな。幼い頃からキリスト教学校で学んできたから。聖フランシスコの平和の祈りを暗誦するしね」
それは「主よ、私をあなたの平和の道具にしてください」という祈りだ。
「運命がスペンサーの人生をそこに導いたんだと私は解釈する」

http://bunshun.jp/articles/-/6389

学校では思うにまかせなかったし、軍隊に入っても望んだ部署には配属されなかった。
けれど、すべては神が「他者を救う」という私の使命を果たすためにちゃんと計画されていたことなんだ。
そういう感じではないかと思います。
だったら、『アメリカン・スナイパー』の主人公のように、戦争で心を病み、殺された人はどうなんだと思ってしまいます。

クリント・イーストウッドの監督作品は傑作ぞろいで、『15時17分、パリ行き』もいい作品ですが、キリスト教福音派が喜ぶような内容であることも事実です。

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マーガレット・ミラーとロス・マクドナルド

2018年06月23日 | 

ミステリー作家のマーガレット・ミラー(1915~1994)とロス・マクドナルド(1915~1983)は夫婦です。
マーガレット・ミラーの小説を何冊か読みました。

『狙った獣』(1955年)の解説に宮脇孝雄氏はこう書いています。

概してアメリカのミステリには現代文明の不安な部分を敏感に反映するようなところがあり、50年代の作品群にもその傾向が見受けられる。単純化すれば、戦争の余燼をひきずる男たちはハードボイルドを書き、戦後の繁栄を目の当たりにした女たちはサスペンス小説を書いた、といえなくもないだろう。(略)
50年代は「家庭の時代」であったといわれている。TVにはホーム・ドラマが登場し、頼りになる父親と、賢い主婦と、利発な子供という、今ではいくぶん脳天気にも見える理想のアメリカン・ファミリー像が定着した。60年代に一世を風靡したホーム・ドラマ『奥様は魔女』のように、家庭の主婦は、最新式の電化製品を駆使する魔法使いの役割を期待されていた。

そうか、魔女の奥様とは電化製品を自在に操る主婦の暗喩なのか。

では、マーガレット・ミラーが描いた「繁栄の陰の部分」とは何か。
『悪意の糸』(1950年)の解説に川出正樹氏がこう書いています。

マーガレット・ミラーが訴えたかったものは、当時理想とされた女性像がいかに欺瞞に満ちたものであるか、ということでした。第二次世界大戦後の好景気に沸き、大量消費と郊外住宅地での家庭生活こそがアメリカを代表する生活様式と慫慂された「家庭の時代」はまた、「主婦の時代」とも言われ、妻であり母でもある女性のあるべき姿がマスメディアを通じて喧伝された時代でした。そんな世相にあってミラーは、女性たちの抱える不安や不満、懊悩や鬱憤を摘出し、悪が為され、報いが還ってくるミステリを生涯書き続けたのです。


マイケル・ムーアは自身の作品『シッコ』だったか『キャピタリズム』で、自動車の組み立て工だった父は自分の月給で家族を養い、母は専業主婦だったと言ってます。
トランプを支持した人たちは50年代のアメリカに戻りたいのでしょう。

しかし、実際の50年代は理想的な社会だったかどうか。
マイケル・モス『フードトラップ』に、1955年には女性の38%近くが働いていたとあります。
1980年には51%です。

マーガレット・ミラーとロス・マクドナルドの私生活は不幸に見舞われ続けだったそうです。
「出版・読書メモランダム」というサイトと、ロス・マクドナルド『動く標的』の柿沼瑛子による解説に、トム・ノーラン『ロス・マクドナルド』という評伝によって2人の一人娘リンダについて書かれています。
http://odamitsuo.hatenablog.com/entries/2010/08/16
http://www.webmysteries.jp/translated/kakinuma1803.html
ロス・マクドナルドが4歳のときに父親が家族を捨てたため、看護師の母親が生計を支え、親戚を頼ってカナダ中を転々とした(ロス・マクドナルドによれば高校卒業までの16年間に50回)。
市会議員の娘だったマーガレットは同じ高校の出身。
2人は1938年に結婚する。

娘のリンダは車好きで、フォードに乗り、次第にスピード違反の常習者になっていた。
それだけでなく、不良少年たちと性的体験も重ね、服装、髪型、化粧もはすっぱな感じになり、酒やドラッグにまで手を出すようにもなっていた。
しかし、マクドナルドはリンダを理想化していたこともあって、その一面しか見ておらず、常に彼女をかばい続けていた。

ところが、16歳のときの1956年2月、リンダは飲酒運転で2人の少年をひき逃げし(1人は死亡)、さらに別の車と衝突するという交通事故を起こした。
両親が著名な作家だったため、マスコミは連日、報道する。
リンダは8年間の保護観察処分に付されることになる。

リンダを診た心理学者によれば、分裂症的パーソナリティ体質だった。
事故前後の記憶がはっきりと戻らず、別の男が運転していて逃げたという目撃証言もあり、真相は不明のまま。

『殺す風』(1957年)にこんな文章があります。

なんとまあハリーは分別なしの馬鹿だったのだろう。夫というよりも、いきすぎた自由放任主義の父親みたいなもの、やっきになって子供のあやまちをかばいたがり、いちばん心休まる説明をとびつくように受け入れる。

夫と娘のことを皮肉って書いているように思えます。

リンダはカリフォルニア大学ディヴィス校に入学するが、街に出て酔っ払い、門限を破って外出禁止処分。
1958年になって、またも学内で酒を飲み、大学からの公式譴責処分を受けた。
1959年5月、寄宿舎の階段の吹き抜けでの飲酒を舎監に目撃され、懲戒委員会の審査事項に加えられた。

1959年5月30日、顔見知りの2人の男にネバダ州との境にあるカジノへのドライブに誘われて出かけ、翌朝になっても戻らなかった。
大学側は両親に連絡し、リンダの事件担当判事は保護観察違反だとして、彼女を州全域に指名手配するように指示した。
マクドナルドは失踪したリンダの捜索に乗り出し、キャンバスでリンダの女友達から事情を聞き出す一方で、近郊の警察、精神病院とも連絡をとり、本物の私立探偵を雇い、テレビ局や新聞社に働きかける。
6月9日、リンダから自宅にいるマーガレットに電話がかかってきた。
ただちに私立探偵がリンダを迎えに行き、11日に精神病院に入院する。

その2年後から、失踪した娘を探すリュー・アーチャー物の『ウィチャリー家の女』『縞模様の霊柩車』『さむけ』が書かれますし、マーガレット・ミラーも代表作を続けて書いています。
小説家というのは大したものです。

リンダは30歳のとき、薬物の多量摂取で死にました。
『心憑かれて』に載っている1989年のインタビューで、マーガレット・ミラーはリンダの一人息子が先月亡くなったと語っています。
マクドナルド一家は「家庭の時代」「繁栄の時代」の闇を表しているといえるでしょう。

ロス・マクドナルドは62歳の1977年に入ってアルツハイマー病の兆候が顕著になり、67歳で死亡。
マーガレット・ミラーは晩年、ほとんど目が見えなくなっています。
1968年のマーガレット・ミラーの自叙伝に、夫や娘についてどんなことを書いているのか読んでみたいです。

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ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』と旧約聖書(2)

2018年06月18日 | 

加藤隆『集中講義 旧約聖書』を読むと、ユダヤ人もフロレンスと同じ疑問を持っていたようです。

紀元前13世紀、エジプトで奴隷状態にあった人々が集団で逃亡した「出エジプト」において、ヤーヴェを神とする集団が成立して、イスラエル民族、ユダヤ民族の核となった。
エジプトを脱走した集団はカナンと呼ばれる地域に侵入し、仲間になった先住民と定住生活をすることになる。

旧約聖書は、紀元前13世紀から紀元後1世紀くらいまでの時代について書かれた文書を集めたもので、紀元前5~4世紀に編纂され始め、一応完結するまで500年くらいかかっている。
いくつかの文書を集め、それをいわば「切り貼り細工」のようにしてつくられているので、矛盾や難点がある。

6日間の天地創造とエデンの園の物語という2つの創造物語が創世記に書かれてあり、この2つには矛盾がある。
最初の物語ではさまざまなものがつくられ、最後に人がつくられるが、第二の物語では人がつくられた後で植物がつくられる。
最初の物語では男女が同時につくられたようになっているが、第二の物語ではまず男(アダム)がつくられ、それから女(イブ)がつくられる。
「聖書に書かれていることはすべて真実だ」といった単純な立場を否定するべきだということが、聖書の冒頭に記されていることになる。

神はモーセに名前を名乗ることを2度にわたって行う。
2度目には「わたしは、有るところの者だ」「私は、有るように有る者」と訳すべき名を述べる。
つまり、「神は、自分が動きたいように動く者」ということ。神がどのような存在なのかは人間には理解できない。
「神は全知全能だ」と言うが、全知全能ではない人間が想定しているにすぎない。
少なくとも分かるのは、「神は全知全能だ」と主張する者は、神について「実は分かっていないのに、分かったようなことを言おうとしている者だ」ということくらいだ。
「全知全能だ」「恵み深い」などというのは、人間の側の勝手なレッテル貼りである。

紀元前10世紀後半に、南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂し、約200年後に北王国がアッシリアに滅ぼされる。
北王国の滅亡によって、「ヤーヴェは民を必ずしも守らない神だ」ということが事実として示される。
ヤーヴェを「頼りにならない神」と否定しないために、南王国の者たちは、民がダメなのだ、罪の状態にあると考えることにした。

加藤隆氏はこういうたとえで説明します。

ヤーヴェが何もしてくれないという状態は、結婚している夫婦において、夫がどこかに消えてしまったような状態です。強盗がきて家の半分を破壊しても(北王国の滅亡)、夫は姿を現しません。そうこうするうちに家の残り半分も破壊されます(南王国の滅亡)。しかし妻は、夫と離婚せず、結婚関係を存続させます。夫は消えてしまい、何もしてくれないけれども、彼は正式には夫であり続けます。ひとりの男性だけが夫です(一神教)。
夫が消えてしまったこと、夫が何もしてくれないことについて、妻は、「不適切な女だからだ」と考えます(罪)。自分が「不適切」であり、夫は「正しい」ので、彼女が夫を責めることはありません。彼女が夫に何か要求することもあり得ません。夫がいないのだから、他の男性と彼女が関係をもつ可能性があるかのようですが、彼女は「不適切な女」なので、他の男性と新たな関係をもつための条件が整っていません(多神教的傾向の消滅)。


民にどんな不幸が生じても、それは「神のせい」でなく、「民が罪の状態にある」という立場が、「神の沈黙」を正当化する構造をつくり出している。
そのため、何が起こっても、民が神を見捨てることはない。

しかし、神の行動に理由をつけ、「民の罪」が「神の沈黙」の理由だということは、ユダヤ民族の思い込みかもしれない。
民が罪の状態にあるから、神は沈黙したということなら、人間の側の態度によって、人間が神を動かすことができることになる。
この考えは、神を操ることができるという前提が隠されている。
しかし、「民は罪の状態にあるという考え方」はユダヤ教において支配的な立場になっていく。

神はかつて「希望のメッセージ」を述べるが、状況の改善は生じておらず、神は実質的なことはしていないので、いつまでも希望にとどまっている。
聖書全体を読むと、神はほとんど何もしないということが書かれてあると言ってもいいくらい。
人間の側が罪の状態にあるのでは、「救われていない」という状態にいつまでも留まっているということになる。
「罪」の状態にあるということは、人間の判断や行為は、神との関係を修復する上で何の価値もない。
人間の側にどんな変化があったにしても、その者が「正しい」となる余地はない。

しかし、その者の状態を正しいものにすればよいという考えが生じ、「神の前での正当化」を行う人がいる。
何が正しいかを知っていて、しかも実践できる、それが救いの道だという態度が、「信仰」や「敬虔」の態度である。
「敬虔主義」は、自分の態度によって神を左右できるという人間中心的態度に依拠している。
「自分は正しい」と思い込んで安心したいので、自分と同じようにしない者たちは救われないのだと自分に言い聞かせることで、安心を補強する。
「信仰」は神への信仰であり、神に忠実であることだが、「神に忠実であるとはどのようなことか」を自分の人間的判断で決定している。
だから、絶えず「信仰」が強調されねばならない。

ギリシアの支配(紀元前4世紀~前1世紀)以降、「律法」が絶対的な権威をもつ「律法主義」が支配的になる。
「律法」の掟を完璧に守るなら、神の前の義が実現して救われることになるとされる。
しかし「律法」を完璧に理解し、完璧に遵守することは不可能で、誰も救われないことになる。
「律法主義」においては、「人が罪の状態であること」、「神が動かないままであること」が前提となっており、「律法」を介しての救いは実現しない。

紀元前3世紀~前2世紀になると、黙示思想が目立ってくる。
人間の試みはすべて無駄で、神が一方的に「この世」を滅ぼすとされる「終末」が考えられた。
しかし、「終末」は実現しない。
「救い」に関してユダヤ教は八方塞がりの状態になっている。

旧約聖書では、「人が何をしても救われない」「神の介入を待つしかない」ということが確認されている。
イエスの立場は、「罪」の状態にあるはずの者に対して、神が一方的に介入して、神とその者の間に生き生きした関係が生じるようになったと考える。

この説明ではフロレンスが納得しないでしょう。
もっとも、ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』はキリスト教を否定しているわけではないように思います。

コメント

ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』と旧約聖書(1)

2018年06月06日 | 

『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』はメキシコ系アメリカ人のルドルフォ・アナヤが1972年に書いた小説です。

1945年ごろのニューメキシコ州を舞台に、7歳の少年アントニオのまわりに起きる出来事をめぐる物語。
父親の家系はヤノ(大草原)で馬に乗って牛飼いをしていた。
農家に生まれた母親はアントニオが神父になるのが夢。
家族はスペイン語を話す。
町の人たちはほとんどがカトリックで、子供たちもカトリックでなければ地獄に堕ちると信じている。

年老いた呪術師のウルティマはアントニオ一家と一緒に住むようになる。
母方の伯父たちは、呪いをかけられて死にかけた弟を助けてもらったのに、ウルティマが襲われた時に助けようとしない。
人々を救うにもかかわらず非難されるウルティマはイエスを連想させます。

アントニオは黄金の鯉を見に行き、友達からこんな話を聞く。
大地がまだ若いころ、鯉を食べることが禁じられていたのに、飢えに襲われた人々は鯉をつかまえて食べた。
神々は罪を犯した人間達をすべて殺そうとしたが、人間を愛していた神が反対し、人間達を鯉に変え、川の中で暮らすように決めた。
人間を愛していた神はとても大きく金色の鯉に姿を変え、人間達の世話をすることにした。

唯一神のキリスト教とは違う神様です。
もし古い宗教が、その信者の疑問に答えられなくなったら、それはその宗教が変わるべき時がきたということなのかもしれない、とアントニオは考えます。

同級生のフロレンスは神を信じていない。
フロレンス「母さんが死んだとき、ぼくは三歳だった。父さんは飲み過ぎて死んで、それで。姉さん達は売春をやってて、ロージーの店で働いているんだ……。
それで自分で考えたんだ。幼い子供にこんなつらい思いをさせて、神様は平気なんだろうかって。ぼくはこの世に生んで下さいなんて頼んだわけじゃない。神様が勝手にこの世に送りだし、魂を吹きこみ、ぼくを罰する。なんでだ? ぼくが神様に何をした。なんでこんな目に合わなくちゃいけないんだ、ええ?」
ぼく「もしかしたら、神父様のいったとおりなのかも。神様はぼくたちの前に、乗り越えるべき障害をお置きになったのかもしれない。そしてぼく達が、そのつらくて苦しい障害を乗り越えたとき、良きカトリック教徒になり、天国で神様とともにいる権利を与えられるのかも」
フロレンス「それも考えてみたんだ。だけどやっぱり、こうなるんじゃないかなあ。つまり、もし神父様のいうように神様が賢いのなら、ぼく達が良きカトリックかどうかなんて試す必要はないはずだ。それにさあ、まだ何も知らない三歳の子供を試してどうするんだよ。神様は全知全能だということになってる。それはそれでいい。だけど、じゃあなんで、悪いものやいやなものなしでこの地球を作らなかったんだろう? なんでたがいにいつも親切でいられるようにぼく達を作らなかったんだろう?(略)泳ぎにいくと何人かは小児麻痺になって、死ぬまで体が自由に動かなくなってしまう! それって正しいことなのか?」
ぼく「わからないよ。昔はすべてがうまくいっていたんだ。エデンの園では罪もなく、人間は幸せだった。だけど、ぼく達人間が罪を犯してしまったから……」
フロレンス「ぼく達が罪を犯したって? ばかばかしい。罪を犯したのはイヴだろ。イヴが掟を破ったからって、なぜぼく達が苦しまなくちゃいけないんだよ、ええ?」
ぼく「ただ掟を破っただけじゃないんだ。ふたりは神様のようになろうと思ったんだ! 覚えてないかい、ほら、神父様がいってたじゃないか。あのリンゴには知恵が詰まっていて、それを食べると、いろんなことがわかってしまうって。そして神様みたいに、善と悪について知ってしまったんだよ。だから神様はふたりを罰した。それはふたりが知恵を欲したからなんだ」
フロレンス「それもおかしくないか? なぜ知恵を求めることが人を苦しめることになるんだ? ぼく達が学校にいくのだって、勉強をして知識を得るためだし、公教要理に通うのだって、知識を……」
ぼく「もしぼく達が知識なんか持ってなかったら、どうだろう?」
フロレンス「野原にいるばかな動物達と同じになっちゃうんじゃないか」

神の沈黙ということです。
恵み深い全知全能の神がどうして幼い子供を罰するのか、どうして神は不幸や災厄に何もしないのか。
フロレンスの疑問にアントニオは答えることができません。

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『ひっつきもっつき』

2018年05月29日 | 日記

娘が幼稚園の参観に行き、孫(娘の娘)と「ひっつきもっつき」をしたと、歌と身ぶり付き話してくれました。



(「ひっつきもっつき」は1分55秒から)

どんな歌なんじゃろうと思ってネットで調べると、まず「ひっつきもっつき」は方言だと出てきます。
さらに調べると、岡山、広島、山口、福岡で使われているようです。(山口、福岡はちょっと違う言い方もある)
いやはや、方言だとは知らなんだ。

オナモミのように服などにひっつく植物の名前が「ひっつきもっつき」で、それが転じて、子供が親にひっついて離れなかったり、仲が良くていつも一緒にいる人たちのことを「あんたら、ひっつきもっつきじゃねえ」と言います。
私は後者の意味しか知りませんでした。

「ひっつきもっつき」を作詞したケロポンズの平田明子さん(左の人)は広島育ち。
平田明子さんは「ひっつきもっつき」が広島弁だとは知らなかったのではないでしょうか。
これで「ひっつきもっつき」という言葉が全国で使われるようになればちょっとうれしい。

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夜這いの不思議

2018年05月21日 | 日記

江馬修『山の民』は、明治2年、高山で起きた「梅村騒動」と呼ばれる農民一揆を描いた小説(1938~1950年)です。
江馬修は小説を書くにあたり、古老に聞き取りをするのですが、夜這いについても聞き、小説の中に取り入れています。

飛騨の村々では、この時代にはまだ、よばいの習俗が若い独身者の特権のように思われていた。いわば結婚前に於ける青年男女はその性的自由を一般に公認されていたのである。そしてやや誇張して云えば、部落の若連中は、おなじ部落内の未婚の娘たちを、いわば共同的に管理していた。彼らは毎夜のように、気のむくままに、各自が好きな女のもとへかよっていたし、頬かぶり小屋はまたおのずとそうしたばあいの本拠地ともなっていた。(略)
いったい農家ではどこでも戸締りというものがなく、夜間の出入りはまったく自由だったし、物を盗まないかぎり、よばいどに対してあとから故障や苦情が出ることもなかった。しかし、どうかすると、家によっては頑固なおやじや年寄がいて、けっして若いものを寄せつけぬ所があった。そういう家のものは、当然若連中の憎しみの的となって、いろいろな仕方で制裁や復讐をうけることになる。(略)
もし拒否するものが親たちでなく、娘自身であるばあいには、彼女は若連中から一せいにハチブのあつかいをうける。だから彼女はおぼこ(処女)として嫁入りができるわけではあるが、「村の若い衆から誰にも相手にされなかった」という不名誉を甘受しなければならぬというわけだった。


赤松啓介氏(1909~2000)は夜這いの実体験と見聞を『夜這いの民俗学』などに書いています。

昔の夜這いでは、年上の娘、嬶、後家などがそのアジワイを若衆に教育し、壮年の男たちは水揚げした娘たちを訓練したのである。(略)
僕などの経験した結果からいえば遊郭や売春業者たちから手ほどきされるより、はるかに懇篤、かつ貴重な訓練であったというほかはない。

若衆入りは13歳か15歳、夜這いは若衆入りと同時にはじまる。
若衆入りの際の相手はどこでも後家さんが主体で、後家さんが足りないと40歳以上の嬶が相手をしてくれることになる。
娘は月経があってからというところがあるし、陰毛が生えてからというムラもある。
年長者による性教育というわけで、獅子文六『てんやわんや』に出てくる夜這いはこれですね。

当時、小作農の家は、だいたいが四間程度で、娘は奥に寝かされていた。
親も自分たちが夜這いしてきたから、娘のところに夜這いが来るのは当たり前と思っている。
娘の気に入っている男には、昼間、娘から誘うこともあったが、気に入らない男の足音がすると、戸を閉めてしまう。

やり方、相手などは字(あざ)ごとに多様である。
ムラの女なら誰に夜這いしてもいいところもあるし、未婚の娘と後家、女中だけを開放しているムラもある。
よそのムラの者はだめだとか、よその若衆なら嫁は許されないが、後家や娘はかまわないとか、字(あざ)ごとにならわしが違う。

戦前まで、一部では戦後しばらくまで夜這いは一般的に行われており、昭和30年代には神戸市の北部でまだ残っていたそうです。
赤松啓介氏は10歳で近所のオバハンとコタツで性交、11歳で射精。
「もう十一、十二になったら性交をやらせる教育しないとほんま子供がかわいそうだ」と過激なことを言っています。

ところが、山下惣一『一寸の村にも、五分の意地。』を読むと、そんな簡単なものではない。
山下惣一氏は1936年生まれ、中学を卒業してすぐに農業をついでいるので、昭和20年代のことでしょう。
先輩が娘の家に忍びこみ、一定時間がすぎると、かならず親父さんに追われて脱兎のごとく飛び出してきた。
一度だけ、侵入に同行した。

抜き足、さし足で娘のところに近づいて、すすけた天井にぶら下がっている二燭光の薄ぼんやりした光の中で目をこらしてみると、蚊帳の中で父親と母親の間にはさまれて、川の字になって眠っているのが当の娘なのだから、なにかができるわけがない。個室なんて夢のまた夢の時代なのである。
先輩は、じつに辛抱強く、父親のいびきや母親の寝息の変化に息を止め、動きを止めて長い時間をかけて目的地へ近づいていった。(略)
ところがいけない。娘さんのズロースを少しずつおろしはじめて、やっと股間の繁みがのぞけるほどになった時、なぜか、父親が大きなくしゃみをした。(略)その時、父親は一瞬目ざめたらしく「ん?」というようにつぶやいて頭をもたげた。
先輩は娘さんの足元の布団にはりついて息を殺していたが、何を思ったのか、あるいは思わずやったのか、「ニャーオ」と猫の鳴きまねをした。じつにうまくやった。
「なんだ、猫か」と父親がつぶやくのに、馬鹿な先輩は「はい」と返事してしまって、追われた。

なるほど、親と一緒に寝ているのに、娘の布団に入るのはたしかに難しい。

その時からぼくは、この労多くして実益の少ない夜這いなるものに幻滅した。先輩たちから伝わってくる話はかなり脚色されたものだと考えるようになった。
だから、ぼくらの世代になると、夜這いはすたれた。もっと効率のよい方法を考え出したのである。公民館でフォークダンスをはじめたのだ。娘たちは、夜の外出を許さない親の反対を押しきって、一人残らず集まってきた。
ダンスをやりながら「どう、今夜」と個別に交渉した方がはるかに効率的だし確率は高い。


今東光『好色夜話』にはこんな説明があります。

昔から夜這いというのは、まった見ず知らずの女の許へは容易に這い込めないものと言われている。中にはそういう勇敢な奴が冒険心に駆り立てられて決行するのもないではないが、それには幾多の難関を越えなければならなかったのだ。先ず吠え立てる犬を手なずけ、雨戸をはずすという、まるで泥棒みたいな方法を取らなければならない。そして漸く辿りついた女は見知らぬ男を痴漢と心得て声を立てたり騒ぎ立てる。それを鎮めるには一方ならぬ手段を要するのだ。しかもおおむね失敗に終るのだ。まして家人に気づかれたが最後、下手にまごつくと大怪我をしなければならない。殴られるくらいは覚悟の前で、袋叩きにあって戸板でかつがれて戻ることさえあるのだ。こんな器量の悪い話があるだろうか。
そこで大方の夜這いというのはあらかじめ女と示し合せ、門の鍵をはずし、雨戸も開き易くしておいてもらうので、うまうまと成功するのだ。女の手引きなくして成功することは困難なのである。

夜這いは簡単にできるものかどうか、赤松啓介説と今東光説、どちらが真実なのでしょうか。

ずっと以前、明治か大正生まれの人に「夜這いをしたことがありますか」と聞こうと思ったことがありますが、その勇気がありませんでした。
今から思うと聞けばよかった。

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平安時代から明治時代までの結婚(3)

2018年05月13日 | 日記

・独身
結婚と同棲はどう違うか、通い婚と夜這いは同じか、これは結婚という制度があるかないかということではないかと思います。

平安時代の摂関期や院政期には、正式な結婚をしなかった、あるいは、できなかった男女が多い。
貴族層の女性は、父母から家屋や財産を相続したから、結婚しなくても生活でき、兄弟の援助を受けられたため、一生独身で暮らした貴族女性は結構いた。
女房勤めをする女性たちも、正式な結婚をしない人が多かった。
独身といっても、まったく男性と交渉がなかったわけではなく、男を通わせたこともあっただろうが、社会的に公認された妻ではない。

京都の庶民層の男女や、地方の在地領主の従者や下人層には、結婚して家庭を持つことができなかった人々が多くいたにちがいない。

江戸時代、結婚しない男は、武士、商人、職人を問わず、非常に多く、結婚しなくても普通くらいだった。
13歳くらいで中小店に丁稚で入り、独立するまで十数年以上かかる。
棒手振り(物売り)ではその日暮らしだから、妻帯は難しい。
商家の奉公人は大店で40歳を過ぎ、中小店だと39歳過ぎて結婚したが、大店のほとんどは京都に本店があり、結婚が許されても、妻は出身地に居住していて、夫が妻に会えるのは数年に1度くらいだった。

独身者の受け皿として妾や遊郭が多かった。
妾にも、二月縛りで金5両から2両くらいまであった。
江戸後期になると、下級武士や小商人までもが妾を囲うようになった。
数人の男が金を出しあって1人の女を共通の妾とすることもあった。

・離婚と再婚
男が女のところに通ったり、一緒に住むことが結婚したことになるかどうか、その時代や階層によって違ってくると思いますが、離婚ということは結婚という制度があってのことなのでしょう。

中世においては、婚姻に婚姻届が必要とされず、離婚も届けを出す慣行も規則もなかった。
戦国期には、「離縁状(去状)」の有無によって、たしかに離婚しているかどうかの判定が戦国大名によってなされる。

鎌倉期・戦国期は武士、百姓どちらの階級においても、離婚権は夫側にあった。
妻側から離婚しようとすれば、妻が家を出て、その後、夫側の承認が必要だった。

離婚、死別による再婚、再々婚は一般的だった。
曾我兄弟の母親は3度結婚している。
毛利興元(元就の兄)の娘は4人の夫をもっていた。
フロイス「ヨーロッパでは、罪悪については別としても、妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる」

江戸時代も離婚・再婚は多く、武士の離婚率は11.23%、再婚率(夫死亡後、離婚後、婚約破棄後、婚約者死亡後を含む)も58.65%。
男は45歳以前、女は30歳以前に離・死別した場合、8割以上が再婚した。

武家の場合、男子を産んだ女は、夫が若死にしても再婚することはほとんどなかったが、子供が女子だけの場合は、身を引いて再婚するのが一般的。
農村では、女性の多くは実家に戻ったまま再婚しないのがほとんどで、男の再婚率のほうが高い。
また、女性は36歳を過ぎれば再婚はしないが、男は40歳以上でも再婚する場合があった。

結婚の妻に多額の持参金を払い、多くの道具、衣裳を持ってきた。
離婚に際して、夫は持参金を妻に戻し、妻が持ってきた道具や衣裳などは持ち帰ることになった。
慰謝料の支払いや持参金の返還では男女平等だった。

大名の結婚にあって、持参金等の経済的負担を軽減するために、娘は自分の家より若干低い家格の家と縁組する傾向があり、再婚となるとさらに低い家が選ばれる。
妻の多くは夫の家格より高い実家を後ろ盾にして家庭内で夫に優位を保っていた。

江戸時代は男尊女卑の時代といわれているが、庶民の女性は生き生きとしており、夫が勝手気ままに妻を離婚していたわけではない。
他に女ができ、その女と結婚するために妻を離婚することは認められなかった。

妻から離婚したい場合は駆け込み寺があった。
3年間、寺に入る場合は、生活費として5、6両を払った。
夫がすぐに離婚を承知しても、関係者への謝礼金が必要だった。

離婚を請求した者が慰謝料を支払った。
数十両から100両を持っている女性でないと、妻からの離婚請求はできなかった。

庶民、特に農民の妻は重要な働き手であり、糸繰りや機織りによる現金収入によって生活を支える技術と能力を持っていた。
夫からの離婚状の受け取りを拒否する女房や、嫌いな夫のもとを飛び出す女房もいた。

高木侃『三くだり半と縁切り寺』によれば、男尊女卑の傾向は明治中期以降に強められ、作り出されたものだそうです。
「女房と畳は新しいがよい」ということわざは、江戸時代にはあまり口にされず、男尊女卑が強制された明治中期以降に男性にもてはやされた。
「女の一人や二人は男の甲斐性」といった言葉も、明治以降に人口に膾炙されたものである。

昔からの伝統だと言いますが、明治中期以降からの伝統が多いのではないかと思います。

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平安時代と明治時代の結婚(2)

2018年05月08日 | 日記

・家の成立
学者によって違いがありますが、家という概念が芽生えるのは10世紀前後か、10世紀以降のようです。
まず中央貴族や地方豪族層から、官職を父から息子へ伝えることが大きな理由となって生まれた。

11世紀(摂関期)になると、父系の家柄や家格が決まってきて、母方の血縁はたいして問題にならなくなる。
女性の出自が問題にならなくなることは、女性の社会的地位の低下の結果である。
そして、父子継承は11世紀末(院政期)に成立した。

家がどの階層にも浸透したのは院政期(11世紀)という説と、武士層の代々継承される家の形成は鎌倉期からであり、庶民層の家意識はそれよりもう少し後のことだという説があります。

もっとも、それは身分、階層がある程度上の話だと思います。
鎌倉時代、領主の家の下人が他の領主の下人の子供を産んだ場合、生まれた子供が男なら父に、女なら母につける。
そして、下人の家庭生活がどちらの領主の屋敷で営まれていたか、子供はどちらの家で養育されていたかが基準となる。
主人が必要となれば、下人の妻が妊娠中であっても、夫の下人は売却された。
産まれた子供の帰属が本主と買主との間で相論の対象とされ、産まれた子供が父に付すとされることもあった。
家といっても、下人の場合はあってないようなわけです。

家が成立すると、家政全般の切り盛りが女性の役割となり、同居する妻がこの役割をはたす。
応仁の乱後、妻の役割の一つが祖先祭祀で、家の祖先の追善仏事が自邸で行われるようになり、妻が自邸の祭祀空間に僧を招き、堂荘厳、斎食の手配をした。
正忌・月忌は父母を中心に、祖父母、曾祖父まで行われた。

・婿取婚と嫁入婚
男が女のもとに嫁す婿取婚が、女が男に嫁す嫁取婚へと次第に変わっていきます。
「嫁入り」は本来、婚姻の後、妻が婿の家に初めてはいることを指し、その意義も、夫の家に対する挨拶以上のものではなく、二人の新居または妻の家に帰ってきた。
したがって、夫婦生活の基礎がまだ夫の家になかった。

ところが、婚姻後、夫の家の仕事を手伝ったりすることが重なるにつれて、嫁はしだいに夫の家の一員と見なされるようになる。
その後、夫婦は夫の家に移り、嫁が夫の母親にかわってその家の家政をとりしきることになる。

夫の家に夫婦ともに同居する習俗が進むと、短期間のうちに夫家に移り住み、やがては嫁が直接、夫家に入るかたちに変化する方向に向かう。
こうして次第に「嫁取婚」へと移行する。
嫁取婚が始まるのは、高群逸枝は室町期、田端泰子氏は鎌倉期から始まったとします。

もっとも、娘が他家へ嫁ぐということは、労働力が移ることを意味したから、江戸時代でも、働き手として重要な存在である娘をすぐに嫁がせるわけではなく、子供が産まれるまで、里方から通わせる形をとったところも多い。

中世のはじめ(平安末期?)には、夫婦別居、母子同居が普通だった。
夫婦は別姓だったが、居住形態が母子同居であっても、子供のうち、女子は母方の、男子は父方の姓を名乗った。
母子同居から夫婦同居へと変化するのは、鎌倉期に入ってからのこと。
鎌倉中期以降、武士階級では嫁取婚が普及しはじめた。

結婚儀式は10世紀ころから娘に婿を取る形態で行われるが、一夫多妻であり、どの妻とも儀式を挙げることが多かった。
11世紀中ごろまでは、結婚当初は夫が婿入りをして妻の両親と同居するが、一定期間たつと、妻の両親が未婚の子供たちを連れて別の邸宅に移住したり、子供の夫婦が別の邸宅に移住する。

貴族層の家が12世紀前半(院政期)に成立すると、婚姻形態は婿取婚であり、一夫多妻であるが、夫と同居した妻が正妻とされる。
妻の両親とは同居しなくなり、結婚当初から子供の夫婦だけの居住となるが、夫の両親と同じ屋敷内に同居することは一般的ではない。

貴族の家では、鎌倉期までは夫方居住婚になっても、息子夫婦が夫の両親と同一屋敷に居住することは一般的になかったが、徐々に婿取婚から嫁取婚の傾向を持ちはじめる。

南北朝期になると、居住形態に変化があらわれ、父夫婦と息子たち夫婦が同一屋敷にそれぞれ別棟で居住するようになる。
息子たちの婚姻形態は嫁取婚である。
兄弟が同一屋敷に居住し、息子たちはそれぞれの住居に妻を迎え、それぞれに膳所があるので食事部分は独立している。
妻が死去すると再婚し、その時々で一夫一妻となっている。

室町期になると、嫡子夫婦だけが父と同一屋敷に別棟居住し、他の息子夫婦は父の屋敷の隣接地に居住するようになる。
つまり、嫡子以外の息子は、結婚すると父の屋敷から出る。

戦国期は、公家は嫡子一人を残して男子は僧侶になるか、他家の養子となり、一子相続が主流になる。
嫡子が妻を迎えるときには嫁娶の儀式を行うようになる。

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