百姓通信
自然と素直に向き合い、全身で風を感じて私は百姓しています。
①土づくり②循環型③無農薬・無化学肥料④永続性を大切に!
ビジネスブログランキング
 



27年前の1995年1月17日(火)
「午前5時46分」
兵庫県南部を震源とした「阪神・淡路大震災」が起き、6434名の方々がお亡くなりになった。
地震の規模や死者数は日本の観測史上3番目の大きさで、負傷者の約7割家具や飛散ガラスによるもので、死者の約7割にあたる4,400名が倒壊家屋による窒息死・圧死で、そのうち約9割が地震発生後15分以内にお亡くなりになったという。
「阪神・淡路大震災」はわれわれに都市型災害への対応の難しさ、段階を持って移っり変わる課題への対応の難しさを教えてくれた。今後それらはハード面、そしてソフト面、そしてそれぞれがそれぞれの段階に対してベストの対応ができれば、「震災」の経験が活かされたといえるだろうが、27年経過してもなかなかそうは言い切れない点が問題であり、かつ、その記憶が薄れてきている点はすごく危険な状態だといえるのではないか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




いろいろなことが世の中、
予測もできないことがこの世の中、
突然、何の前触れもなく、起こるものだ。
昨日(15日)、南太平洋の島国トンガ付近の海底火山の噴火で、同国や周辺諸国のほか日本や米国など太平洋沿岸の広範な地域に津波が押し寄せた。
噴火した火山は昨年12月ごろから活動が活発化しており、一部の専門家は「1000年に1度」の大規模噴火との見方を示している。
しかし実は「津波」ではないようで、大気を介した「津波」の拡がりで、「空振」と呼ばれる衝撃波が、空気を振動させ、それが海水を媒介して日本沿岸にも津波を発生させたという。
世の中には、なんとも不思議な現象があるものだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




少し雪の舞う早朝、「左義長」をおこなう。
この時期に降る雪を「左義長雪」と呼ぶ。
京都や滋賀、北陸では小正月の15日前後に行う「火祭り」のことを「左義長」といい、東北地方では「とんど焼き」、その他の地域では一般的に「どんど焼き」という。
お正月の飾りや注連縄、お守り、お札等を燃やす行事だが、以前は二日に書いた書初めの半紙を燃やし高く舞い上がれば腕が上達すると言われた。また、火を持ち帰り釜戸で「小豆粥」をつくるのが常だったが、現代家庭には釜戸がほぼなくなったため「灰」のみを持ち帰ることが多くなっている。
「火」は邪気を浄化し、1年間の災いを払う「神聖」なもの、心が凛とする。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




雪こそ積もってないが、ここ数日、寒い生活が続いている。
北海道や日本海側は雪が多く、今朝は東京では最低気温が0.7℃、大阪では雪が舞っていた。
そんな中で、なかなか仕事は捗らない。
出来るだけ、暖かい日に効率よく仕事はこなしたいもので、手が悴む寒い日に無理をして行わないに限る。
怪我や事故がつきものなので、あまり無茶をしないように・・・。
「神はサイコロ遊びはしない」とはアルベルト・アインシュタインが、「不確定性原理に反論するために使った言葉」として有名。世の中の物事には全て法則性があって、それに則ってすべてが動くと考えていたといわれ、つまりすべての物事には原因があるという物理学的な話というよりも「哲学」的なお話。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




立花隆さんの「思考の技術」を読むと、戦後あまりにも思考の角度が限られていたことに気づく
というのは彼は「科学・技術・文明」という3つのフィルターで社会をみると「科学」は現象を観察し、そこに相関性を発見し、定式化する学問であり、「技術」はハードウェアといえる。「文明」は「科学」等によって知り得たシステムを「技術」によって体系化し現実社会において実現化を果たす。
しかしわれわれは、「エコロジー」的は発想を常に持ち得ていたとは言い難い。
現代社会においても「宇宙システム」についてはまだほとんど何も知らない。われわれが生きる「地球システム」でさえまだまだ無知といえる。「地球システム」は、複雑な複合システムであり、さまざまな角度から捉えることができる。「エコシステム(生態系)」も同様と考えられる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今年はじっくり「立花隆」を読んでみたい。
それぞれの分野にどっぷり浸かって、そのものの本質を掴む、そうありたいとは思うがなかなかそうオイソレとできることではない。
「知の巨人」の「知」に少しでも触れることで少しでも「老い」つつある脳味噌の刺激になればと思い、今年は丁寧に歩んでみたい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「ネギトロ」とは、「トロ」を「ねぎ取る」(「剥ぎ取る」の古語)という言葉が由来だという。
「カツオのたたき」は、「鰹」を叩くのではなく、藁でその表面を軽く焼いた鰹の切り身に薬味や塩やタレを馴染ませるために手指で軽く叩いたことが語源だという。
「ネギマ」は、現代では「葱」の間に「鶏肉」を挟んだ「焼き鳥」のことを指すが、本来の由来は、江戸時代に親しまれていた「ねぎま鍋」と呼ばれる鍋料理であり、 ねぎまの「ま」は「間」ではなく「まぐろ」の略であり、「ねぎま」は「ねぎまぐろ」という意味だったようだ。鍋料理はやがてねぎとまぐろを串に刺した串料理となっていったが、「鮪」の価格の高騰で、「鮪」を使いづらくなったことから「鶏肉」を使うようになり、その串刺しをそのまま「ネギマ」として表現しているようだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




以前は「大しめ縄」はみんな(氏子)で編んだものだった。しかしもう数年前から出来合いのポリプロピレン製のものになっている。
昔は藁を選んで揃えて、木槌で打って柔らかくして、締めながら三本の縄状にして巻いていったものだった。腕がパンパンになる程疲れたもので、通常の縄は右回りの巻きだが、しめ縄は左回りで巻くのが特徴だった。
しめ縄の「しめ」には、神様の占める場所という意味があり、「しめ縄」は神の領域と現世を隔てる結界となり、その中に不浄なものが入らない為だという。
御幣(ごへい)や紙垂(しで)は前日までに準備しておき、大しめ縄の上に御幣を青竹の杭で差し込み、榊に紙垂を垂らし荒縄に添える。
古き良き習わしをどう後世に伝えていくか、まだまだ模索は続く。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「腐る」
「腐らない」
その違いはどこにあるのか?
おそらくバランスの問題なのではないだろうか?
何かが多かったり、少なかったり、
バランスがとれていると

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「山茶花」
三重の飯南の粥見の茶畑の民家にある
「山茶花」は推定樹齢120~150年、樹高約11メートル、幹まわり約1.5メートル、枝はり南北約15メートル・東西約12メートルの大木。
地元の氏神様のご神木となっている。
毎年、11月から12月にかけて綺麗なピンクいろの花を咲かせ、後ろにある銀杏の黄色のコントラストが見ものと言われているが、道が細く狭い為、花盛りの頃はこの樹の下まで来ることはほぼ困難。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ