今村監督が、お亡くなりになった。ブログ上ではありますが、謹んでお悔やみ申し上げます。
今村監督といえば、『農業』??なぜ、農業なのか??彼は映画監督のほかに「日本映画学校(昔の横浜放送映画専門学院)」の創設者としても有名、その学校ではその昔「農業実習」があり、その実習であのウッチャンとナンチャン(彼等も卒業生)が出遭ったという・・・これは噂。監督は地に足のついた生き方に人間の本質を見出し、農業は人間の生の原点だと考えておられたと僕は思っている。
また、それは彼の作品の中にはいつも『土の匂い』としてちりばめられており、「にっぽん昆虫記」「神々の深き欲望」はもとより、「楢山節考」「黒い雨」「うなぎ」に至るまで様々な角度から彼独特の“人間観”としてじわっと観客を魅了する。
彼は松竹に入社、あの小津安二郎の助監督を務め、そして日活に移籍後、様々な名作を世に送り出すことになる。また斜陽産業となりつつある映画界を人材育成視点で基礎から支えようと、映画学校を設立するに至る。
創設が1975年でその理念は『人間の尊厳、公平、自由と個性を尊重する。個々の人間に相対し、人間とはかくも汚濁にまみれているものか、人間とはかくもピュアなるものか、何とうさんくさいものか、何と助平なものか、何と優しいものか、何と弱々しいものか、人間とは何と滑稽なものかを真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい。個々の人間観察をなし遂げる為にこの学校はある。』という。なんとも時代に逆行するというか、個の時代の走りで「既設のレールの上を走りたくない若者たち、常識の管理に甘んじたくない若者たちよ集まれ」と呼びかけたのだ。
自分の価値を決して人に押しつけることなく、様々な人間の価値を認めようと努め、多くの人材を映画界のみならず社会全体に輩出した。僕も映画を通してではあるが、今村昌平監督を自分の生きている時代に“風”として感じることが出来、大変感謝している。ありがとう、今村昌平監督。ほんとうにありがとう!!!
今村監督といえば、『農業』??なぜ、農業なのか??彼は映画監督のほかに「日本映画学校(昔の横浜放送映画専門学院)」の創設者としても有名、その学校ではその昔「農業実習」があり、その実習であのウッチャンとナンチャン(彼等も卒業生)が出遭ったという・・・これは噂。監督は地に足のついた生き方に人間の本質を見出し、農業は人間の生の原点だと考えておられたと僕は思っている。
また、それは彼の作品の中にはいつも『土の匂い』としてちりばめられており、「にっぽん昆虫記」「神々の深き欲望」はもとより、「楢山節考」「黒い雨」「うなぎ」に至るまで様々な角度から彼独特の“人間観”としてじわっと観客を魅了する。
彼は松竹に入社、あの小津安二郎の助監督を務め、そして日活に移籍後、様々な名作を世に送り出すことになる。また斜陽産業となりつつある映画界を人材育成視点で基礎から支えようと、映画学校を設立するに至る。
創設が1975年でその理念は『人間の尊厳、公平、自由と個性を尊重する。個々の人間に相対し、人間とはかくも汚濁にまみれているものか、人間とはかくもピュアなるものか、何とうさんくさいものか、何と助平なものか、何と優しいものか、何と弱々しいものか、人間とは何と滑稽なものかを真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい。個々の人間観察をなし遂げる為にこの学校はある。』という。なんとも時代に逆行するというか、個の時代の走りで「既設のレールの上を走りたくない若者たち、常識の管理に甘んじたくない若者たちよ集まれ」と呼びかけたのだ。
自分の価値を決して人に押しつけることなく、様々な人間の価値を認めようと努め、多くの人材を映画界のみならず社会全体に輩出した。僕も映画を通してではあるが、今村昌平監督を自分の生きている時代に“風”として感じることが出来、大変感謝している。ありがとう、今村昌平監督。ほんとうにありがとう!!!