そろそろ桜も開花かナァ、うちの杏も開花宣言。風は少し強かったけど、なかなかの春の陽気、雲ひとつない快晴のもと、露地の仕事に汗した一日でした。
昨日、国土交通省が全国の公示地価を発表しましたが、どの新聞も報道番組も異口同音に、大都市と地方の「土地の二極化」の顕著さを伝えています。小泉政権が格差社会を助長しているとも言われて久しいですが、『富と貧困』の格差社会の到来を一様に嘆くのではなく、『富』とは、『貧困』とは、についてもう一度みんなで整理してみる必要があるように思います。それは『富』=『幸福』、『貧困』=『不幸』という構図ではなく、各々がそれぞれonly one であるためには、何に主軸を置くのか、それは個人個人もそうですが、各地方都市も同様でそれぞれが個性を持たないと、ほとんどが無個性の中、時代に埋没していく・・・と考えられるからです。80年代にG.ギルダーの『富と貧困』は、供給サイド経済学のバイブルと言われ、アメリカの保守派にとって一時代を画した作品でしたが、彼は、「資本主義は与えることから始まる」とした上で、「与えよ、さらば与えられん」という供給重視の資本主義論の特徴は、この偶然性・不確実性の中でリスクを冒して投資し、予見できなかったような成功や失敗に至ることを経済活動の中心に据えている点にあり、大変それらは神的原理にもとづいているといえます。政府の規制や介入は出来るだけ小さい方が良いという彼の考え方は、創造性や自由を奪うことは神の冒涜であるとまで言い切っているのです。
社会は、高度成長期を経て一億総平等の時代から、成熟期の格差社会の到来を迎えようとしています。でも、決して恐れる必要はないのです。おのおのが自由に創造的に生きること、またそれらが認められ、セイフティネットがある社会にそれぞれの“生きがい”をみつけることが大切なことは自明の理であり、『与えよ、さらば与えられん』の精神がその根底に流れているのですから。
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