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昭和疾風怒濤 #1 ─ 佐藤まさあき

2016-05-06 20:50:19 | マンガ
貸本劇画界にはそれこそ掃いて捨てるほどの作家がいた。だが、昭和39年の貸本界の崩壊のときからこの昭和42年の劇画繁栄の時期まで、持ちこたえられる作家がいなかったのだ。雑誌社が、きて劇画家を探そうとしたときには、彼らは廃業、または転職してしまっていなかった。雑誌社で探せばいいじゃないか、と思われるかもしれないが、貸本界で痛めつけられた人は、精神的なダメージですっかり自信をなくしていたのである。劇画が全盛になったからといって、ノコノコ出ていく気力はもはやない。

こんな状態だから、私たちのように生き残った作家は貴重な存在だ。当然、ワッ!と雑誌社が詰めかける。その中には自分を律して多作をしない作家もいただろう。そうなると依頼されればホイホイとそれに応じてしまう私などは便利な存在である。かくして仕事が殺到することとなる。

こんなオーバーワークの状態のときに、さらに祥伝社の『微笑』と集英社の『プレイボーイ・クレイジー』『プレイボーイ』本誌の連載の話が持ち上がってきた。

これを読まれた方にすれば、そんな仕事はもう引き受けないで断ればいいじゃないかと思われるかもしれないが、それは現実に編集者のあのしつっこさを知らないから云えることであって、私のもとにやってくるときの編集者は「何がなんでも佐藤の原稿を取ってこい!」との特命を受けて来ているのだ。すでに編集長から絶対的な指令を受けてきている以上、その編集者にとって、私を攻略しないうちは、戻り道がないのだ。

だいたい依頼に訪れるときから、すでに異様である。

最初はまずマネージャーの記本のもとへ依頼の電話が入る。当然記本は「いま忙しくて描けません」と云う。だがもちろん、そんなことで編集者は引っ込まない。必ず、「お話だけでも…」と食いさがる。

そして編集者は、アポイントメントを取ることもなく、ある日突然、やって来る。

玄関のチャイムが鳴り、「お客さんかな?」と思って玄関のドアを開けた記本の前に、知らない編集者が立っている。すぐさま、記本は猛烈な勢いで「帰ってください!」と云ってドアを閉めようとする。だが編集者もさるもの、ドアを閉める瞬間に靴をガッキとドアに挟ませるのだ。そして、身体をギリギリとねじり込ませながら中へなんとか進入せんものと頑張る。それを入らせまいとして必死に押し出す記本。両者の激しい攻防はつづく。記本の締め出す力に逆らってついに事務所に侵入した編集者は、それからは我々に何時間もつきまとい、拝みたおし、ああ云えばこう、こう云えばああ、とからみつき、絶対に諦めようとはしない。それでも断固、断る意思の強い人もいるのだろうが、私は気が弱いのか、人がいいのか、つい気の毒になって結局引き受けてしまうのである。

それによって、またまた地獄が現出するというわけだ。

これまでも徹夜、徹夜の連続なのに、さらに週刊の連載が2本増えるのである。

アシスタントは、襲いくる睡魔をまぎらわすためにバケツの水の中に顔を突っ込んでは仕事を続ける。1時間ぐらいずつ交代で机の上にうつ伏せになって仮眠をとる(フトンに横になると気持ちがよくなってぐっすり眠り込んでしまうから)。

私は私でカフェイン入りのドリンク剤を飲んで頑張る。睡眠不足が慢性になると食事もとれない。胃が荒れてくる。それでも眠るわけにはいかない。なにしろ、隣の部屋では数社の編集者が待機している。うかうかしていたら他の社に順番をとられてしまうから彼らも必死である。

自分の社の番になると、編集者は2人がかりの仕事となる。1人は事務所で、あとの1人は事務所の下ですでにタクシーに乗って待っている。

原稿が何枚か出来上がると同時に、1人の編集者が「ホーイ、まず4枚出来たあーっ!」と奇妙なかけ声を上げながらドドド…と玄関まで降りてゆき、タクシー内の編集者に原稿を渡す。その編集者はそれを受け取るや、製版所へと全速力で突っ走り、また事務所に戻ってきては次の原稿のために待機するのである。

なにしろ週刊誌は、発行日も決まっており、地方へ輸送する貨車をリザーブしてある。本が出来るのが1時間遅れればその貨車はキャンセルとなり、雑誌社は莫大な損失を受け、その編集者のクビすら危うくなるという。目が血走ってくるのも当然だろう。

やっとのことで各社の原稿を渡し、私は久しぶりに明け方の新宿発のロマンスカーに乗って江ノ島の自宅へ帰る。そして1日休んでまたロマンスカーに乗って新宿駅に着くと、駅の売店に、2日前に渡したばかりの原稿がもう雑誌になって発売されているのには驚いた。

さらに驚くことには、その売店で販売されていた週刊誌の半分以上が、私の作品を掲載している雑誌で埋まっていたのである。

『女性自身』『プレイボーイ』『微笑』『漫画アクション』『プレイコミック』『漫画天国』『ヤングコミック』『漫画コミック』『漫画パンチ』『漫画ゴラク』『プレイボーイ・クレイジー』等々…。

もちろん、これはかなり以前に描いたり、渡したりしていたものが、たまたま同じ時期に重なったものだが、こんな異常な現象は後にも先にもこのときだけである。

 それにしても、江ノ島の駅まで見送りに来た私の子供が、「パパ、またいつか来てねーっ!」と叫んだのには、さすがの私もまいった。 ―(佐藤まさあき 『「劇画の星」をめざして 誰も書かなかった《劇画内幕史》』 文藝春秋・1996、より)



昭和疾風怒濤と題し、今回の佐藤まさあき氏の自叙伝と、次回、竹中労氏による美空ひばりさんの傑作評伝の読書感想を2回シリーズでお届けしたい。以下敬称略。

美空ひばりが今も昔も「歌謡界の女王」であることは誰もが知る。ジャンルとして歌謡曲が形骸化してしまったから、彼女を超える存在は今後2度と現れない、不滅の存在といってもよかろう。

が今の人にとって「佐藤まさあき? 誰?」であるに違いない。時代の波に乗れたが、すっかり忘れ去られた、運も実力のうちという言葉が似つかわしい人物だ。彼の幸運の源泉は、戦後、手塚治虫が漫画の新たな扉を開き、そこへ夢を描いて押し寄せた若者世代の中心に居合わせる、時代や仲間に恵まれたことに他ならない。



出版物の正規のルートとは異なる形で売られる、関西の赤本、そして貸本。手塚治虫は学生の頃からここで頭角を現し、やがて東京の雑誌界やアニメでも大家となる。利にさとい大阪人が雨後のタケノコのように貸本出版社を興し、若い作家を囲い込んだ。この動きの主力として活躍したのが、劇画の名付け親である辰巳ヨシヒロ、その実兄の桜井昌一、さいとう・たかを、そして佐藤まさあきらであった。

辰巳が考えた数人による短編集というアイデアに、雑誌形式にこだわりを持つ日の丸文庫の古株・久呂田まさみが乗っかって、『影』というギャングもの中心の短編貸本誌が作られ、若い作家にとって格好の実験の場になると同時に、商業的にも成功。このあたり、辰巳の『劇画漂流』と本書を併読することによって、周辺の活気や人間模様が立体的に浮かび上がる。詩情を重視する辰巳に対し、佐藤は原稿料や発行部数など実地に即してつまびらかに活写。↑に引用したような中央の出版社に負けず劣らず、貸本出版をめぐる人びとの山っ気も相当なものだ。

アマチュアの頃からサークルを作って会費を集めて回覧誌を発行。プロとしては暗黙の「専属制」を破って仲間同士「劇画工房」を立ち上げる。やがて自ら佐藤プロダクションを興し、自主出版したり、不遇の時期の水木しげるに糊口を凌がせるなどしている。これらのヨコのつながり、人徳が生きて、貸本界が急速に傾いてからも創作を続け、中央の雑誌による漫画ニーズが爆発した時に超売れっ子となることができたのだ。



↑梶原一騎(右)と佐藤まさあき


引用から明らかなように、原稿はノー・チェックで写植を貼って印刷工程へ。漫画雑誌だけでなく、『微笑』『プレイボーイ』のような一般誌も。爆発する需要に、供給が追い付かなかった。だから佐藤まさあきの、超ワンパターン=だいたい不幸な出自を背負った主人公が、復讐するとか、殺し屋・レイプ魔になるとか=でも必要とされた。

代表作の『ダビデの星』も、ユダヤ人虐殺の実録に衝撃を受け、ナチスの側の視点から主人公にサディズムを奔放に追及させたものだ。成功し、滝のある豪邸や、佐藤プロの自社ビルを建てるも、漫画雑誌が進化し、彼の作風が飽きられると、半ば引退して歌舞伎町にパブレストランを開業。これが失敗、豪邸もビルも売却するが、80年代半ばに佐藤プロで再起を賭け『ダビデの星』の4度目の単行本化を企画、これがロングヒットとなりOVA化もされ、96年のこの自叙伝に至る。

ご覧のとおりの二枚目で、4度の結婚。2004年に66歳で亡くなったが、最後まで出版不況とは無縁でいられた、幸福な男の一生と申せましょう。♪佐藤まさあき、あんたの時代はよかった。男が、ピカピカの、気障でいられた~~



「劇画の星」をめざして―誰も書かなかった「劇画内幕史」
佐藤 まさあき
文藝春秋

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