湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

徐福は計画的日本移住だった・・・歴史の考察

2021-08-29 17:21:43 | Weblog
徐福は、秦の始皇帝の命により
不老不死の霊薬を求めて日本に渡ったが、戻らなかった
・・・と、歴史書には記されていますが
本当は、計画的日本移住だったと、私は思います

徐福は3000人の童男童女を連れて行ったと伝えられています
そのことが、このミッションが、薬探しの旅などではなく
計画的な移住植民計画であったことを示しています
財宝財産、百工、五穀の種を持参したというのですから、間違いありません

さらに、後の時代の中国の史書には
その後の徐福のエピソードとして、日本に住み着いたことも記されています
つまり、徐福は、始皇帝の命令で、計画的に日本移民を実行し
その後も、中国本土と連絡を取り続けたということです

なぜ、始皇帝は徐福に、そのような命令を出したのでしょう?
おそらく、自分達一族の安住の地を、日本に開きたかったのでしょう
日本が良いところであることは、当時の中国で、すでに知られていました
移住を決意する以上、かなりの情報を得ていたはずです

そして
日本側にも、受け入れ体制があった可能性が考えられます
日本側に連絡無く、このような多人数で来日したら
戦闘に巻き込まれる危険性があります
そうであるならば、兵士とともに、軍団で来日したはずです

徐福は山東省の人です
シナ大陸の東端で、日本に関する情報を十分得ていたはずです
そして、おそらく、始皇帝の一族だったでしょう
始皇帝が、アカの他人に、その様な命令を出す理由がありませんし
徐福が戻らなくとも、始皇帝が激怒したり
追求の使者を送り込んだ形跡はありません

そして、やはり
始皇帝も徐福も、ユダヤ人だったのでしょう
田中英道先生によれば

「光は東方より」

の信仰によって
彼らは、東へ東へと移住してきたというのです
当然ながら、シナ大陸であれば山東ということになります

そして、その地のユダヤ人達は
はるか海の向こうの日本を知り、その情報を集めながら
いつの日にか、日本に移住しようと
チャンスを待ち望んでいたのです



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