気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

モノは、分けられない

2022-09-30 06:35:58 | 「立つ」健康法
 モノを一つに見ようとする方法はいくつかあります。一つは足していく方法。たとえば「窓・天井・床は自分とつながっている」と考える。何となくできたら続けて外の建物や木々も自分とつながっていると考える。このように自分の周りに存在するモノを一つづつ足して行き、「一つに見る」方法です。それからもう一つ、「分けられない」と考える方法。人は言葉を使わなければ、自分を◯◯だと証明することができません。自分のことでさえキチンと説明できないのですから、周りのモノモノなど尚更説明することができません。この理屈が腑に落ちれば、「モノを分けることができない」と考えることは、さほど難しいことではありません。

 私たちは常識や習慣よって、見たものを疑うことなく直ぐに分けてしまいますが、そこでちょっと立ち止まり、「モノを分けることはできないんだ」と思えば、身心は変わります。非日常の意識になることで、非日常の身心が現れます。「非日常」と言っても、それはとても自然な気持ちのよい状態で、かえって日常が歪んでいることに気がつくのです。

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幼いときの記憶がモノを一つに見させる

2022-09-24 08:53:23 | 「立つ」健康法
 モノを相対的にではなく、一つに見たいと思うのは、幼いときの記憶と関係があるのではないかと思っています。幼いときには、大人ほどモノを分けて見ません。母親のことはわかっても、第三者の区別を正確につけることはできないし、触れるものや景色に対しても、たとえ違いがわかったとしても、それを誰が所有しているモノなのかまでは思慮が至りません。そのような見方を「拙い」「分別がない」などと否定的に捉えるのではなく、肯定的に考えることもできます。

 幼いときのそういうモノを明確に分けない「曖昧」な見方は、体感的に「よい」ものとして記憶されるのではないかと思います。それはその頃に周りからの愛情を受けていたからということだけでなく、自身のモノの見方そのものがよかったからです。モノを曖昧にすることは、敵もいなくなるし、出会うものすべてが自分のものだと思うことができます。そして何よりも自由な感じがあるのです。それがよい体験だったからこそ大人になっても、幼いときと同様にモノを曖昧(一つ)に見ようとすれば、身心が変わるのです。

 幼いときには自然にやっていた「モノを曖昧(一つ)に見る」ということも、大人になるにしたがって、できなくなります。それでもまったくできないわけではなく、方法はいくつもあります。私はたまたま「キチンと立つ」という方法で、それを実現しようとしています。幼いときに刻まれた記憶が、人よりも強く残っているからかも知れませんが。

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モノを一つに見ると身心が変わる

2022-09-13 15:49:47 | 「立つ」健康法
 私たちは普段、モノをそれぞれ違うものとして分けて見ています。机は机、椅子は椅子、窓は窓という具合に。机はどこまでいっても机であって椅子や窓になることはありません。モノにはそれぞれ「違い」があり、その違いは意味(概念)を根拠にしています。このような常識的な見方は、社会生活を行う上で必要なことであり、否定されることではありません。しかしそれは、ただ一つの見方に過ぎません(大多数の人はこの見方だけしか知らず、人生を送りますが)。
 それに対して、モノを無差別・平等に見るという方法があります。もともとモノに対して意味(名前)を与えたのは人ですから、再びその意味(名前)を「剥奪する(取ってしまう)」こともできるわけです。意味を剥奪しても形は残りますが、それだけは「在る」ことにはなりません。常識的な見方では、見えたり、触れたりできるものは「在る」ことになりますが、「無差別・平等」の基準では、それは必ずしも在ることになりません。
 「無差別・平等に見る」ということは、「モノを一つに見る」ということです。自分も含めた周りのモノモノが一つにつながるということです。もちろんこのような見方は簡単ではありません。しかし、完全にはできなくても、それを目指していくことで、身心が変わるのです。




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「無わたし」は自然なこと

2022-09-04 16:35:42 | 「立つ」健康法
前回の続きです。
普段の相対的な見方を離れ、「モノを一つに観ようとする(無わたしの実践をする)」と、なぜ身心が変わるのかと言えば、おそらく、他への警戒心が薄れ、緊張感が消えて、つながっていることからくる安心感をからだが受け取るからではないかと思います。モノが一つにつながれば、自他の区別がなくなるわけで、当然敵もいなくなり、他から自分を守る必要がなくなります。
それから「モノを一つに観る」ということは、努力してそういう見方をするのではなくて、誰でも生来的に、あるいは本能的にそういう見方をすることを求めているのではないかと考えています。人は相対的な見方をするとともに、「モノを一つに観たい」とも思う。「モノを一つに観ようとする」ことは、理屈や目的のためにするのではなく、人の自然な欲求ではないかと思うのです。

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