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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「透明」のイメージで「上書き」する

2024-05-31 08:03:23 | 透明を観る
 イメージをするということは、今の意識に「上書き」することです。イメージを意識の一番上に持ってくるのです。意識の表層にあるものは、その下にあるものよりも、カラダに対する影響力が強くなります。ただしそのイメージがカラダにどの程度影響するのかは、イメージの種類やカラダに反映させる能力により個人差があります。私にとっては「透明」が、一番カラダを変化させることのできるイメージです。
 よく潜在意識は大きく、顕在意識は氷山の一角に過ぎないと言われます。たしかに特にマイナス面での潜在意識は私たちの日常に影響を与えているのかも知れません。しかしそのことをあまり気にしたり、怖れてビクビクする必要はありません。潜在意識がいくら大きく強くても、「透明」をイメージすれば、結果的に気になるほど潜在意識が強く現れることはないのですから。
 「透明」のイメージを繰り返していけば、日常に影響する潜在意識も少しづつ変わってきます。



「透明を観る」とは

2024-05-24 06:58:33 | 透明を観る
 前回「透明はある」という話をしましたが、「透明を観る」とは、具体的にはどういうことでしょうか。それは「透明」のハタラキを意識することです。「透明」は形がないから、輪郭線でモノを分けることができず、理屈の上では周りのすべてとつながります。そのようにして意識の中で、普段分かれている物物が、ひとつにつながって観えたとき(つながっていると思えたとき)、身心は普段と違う深い安らぎを得て、変化するのです。
 私たちは普段、意識するしないに関わらず相対的な見方をしています。「モノを分ける」ことは多少なりとも身心に緊張を生じさせます。緊張といってもガチガチの緊張ではなく、ほとんど気にならない程度かもしれません。それでも「透明」を観れば、力が抜けるので、それまで力が入っていたことがわかります。
 カラダとココロに入っている余分な力が抜けると、おそらく普段の自分よりも自分らしくなったと、感じることができると思います。
 

「透明」がある

2024-05-17 07:38:28 | 透明を観る
 私は「透明を観る」という健康法を実践しています。「透明」とは何もないことではなく、「透明」があるのです。その「透明」を観ようとします。「ない」ものを観ようとするのと、「ある」ものを観ようとするのとでは意識が変わります。もちろん、「ある」ものを観ようとしたときの方が、身心がより良く変わります。
 人は往々にして「透明」のように見えないものを「ない」ものだと思いがちです。常識的にはそう考えるのが普通です。では、私はなぜそれを「ある」と考えるのかと言うと、いくつか答えがありますが、一番はそれを想像すると身心が変わるからです。仮に科学でそれが「ない」と証明されたとしても、一向に構いません。大事なことは「透明」が物として存在しているのかどうかではなく、身心が変わるかどうかなのですから。

「構え」て生きる

2024-05-05 08:13:18 | 透明を観る
 野口整体を学んでいたとき、先生から「白石くんは構えがあるね」と言われました。「構え」というのは、意識的に作っている姿勢(態度)のことです。確かに当時の私にはあったと思います。しかし親しい友人の前では自然体でいましたから、「構え」はいつでもあるのではなく、状況によってあったりなかったりしたのです。先生や教室の雰囲気には緊張感があり、そこで私はリラックスした「構え」のない自分を出すことはできなかったということです。
 
 それから25年ほど経ち、現在私は「構え」ているのか、いないのか。結論からいえば、構えたり構えなかったりしていますが、それより良かったのは「構え」の有無を気にしなくなったことです。以前はできるだけ構えずに「自然体」でいたいと思っていましたが、今はそう思いません。本人にとって構えのない「自然体」であったとしても、周りの人にとっては、必ずしも良いものになるとは限りません。「自然体」がすぎて、常識を欠いたり、欲望が過ぎることはよくあります。それは自己満足の自然体です。周囲に迷惑をかけるくらいならば、しっかり「構え」た方が良いのではないかと思うのです。

 「構え」というと「不自然」だと思いがちですが、そうではありません。私が現在行っている「透明のイメージ」は、ある意味では「構え」をつくることです。しかしやってみると、つくっているような硬さはなく、むしろ柔らかく、本来の自分になるような感じがします。「透明の構え」をつくることで、自分を固くまもっている「構え」が自然にはずれます。

 野口晴哉氏が、「人の自然は野山の自然とは違う」というようなことを言われましたが、人は放っておいて自然に生きられるのではなく、意識的に何かをする(構えをつくる)ことで「自然」に近づくのではないかと考えています。