気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

本能と愉気法

2017-02-26 08:03:55 | 野口整体
 「愉気法は本能である」と野口晴哉氏の著作の何処かに書かれていた。従って愉気法とそれをベースにした整体は仕事に成りづらいと。本能である愉気法を、何時・どの位する(相手に対して施す)のかということは決めることができないからだ(やってみなければわからない)。ある人には長く、ある人には短くなる。料金が同じで時間の長短があるということは、やりづらい(受ける人がその辺をキチンと理解していれば良いのだが)。
 場合(たとえば指導者本人の体調、或は受けに来た人との相性の問題)によっては、指導者が「したくない」ということもあり得る。もしそういうことを我慢して、予約だからするということがあれば、本能とは呼べないのではなかろうか。
 愉気法は中国の「外気治療」のように、気の物理的な成分で患部にハタラキかける方法とは違い、愉気法を通じて、「感受性(本能)を高める」ことにその目的がある(治療や痛みの緩和は二の次)。指導者が本能を使わずに、どうして相手の本能を高めることができるだろうか。
 巷にどれくらい野口整体の技術を使った整体師(指導者)がいるのか知らないが、本能に依拠した方法を全うしている人は少ないのではなかろうか。

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「思考」とからだ

2017-02-19 15:10:40 | 野口整体
 「身心一如」とは、からだと心は直結していて、互いに影響し合っているということである。怒れば水落が硬くなり、腹がすくとイライラするのも「身心一如」だからである。野口整体を始めた頃、「心=感情」と考えていたが、今は「考え方」も含んだ意識だと思っている(心=意識)。したがって、感情的なことだけがからだに反映するのではなく、物の認識の仕方・考え方も反映する。では、どのような意識を持つことが良いのか。それは啓発本にありがちなポジティブ思考で成功を夢見るようなものではなく、禅の「物事を一つに観る」、老子の「道・無名・妙」のような観方である。何故そう言えるのかといえば、そういう意識を持つと、からだが良く変わるからである(身心共に安定して、気持ち良くなる)。
 しかしながら日常生活の中でこのような意識を持ち続けることは難しい。私は特定の時間(練習)の中で、そういう意識を持つようにしている。


 野口晴哉氏は、意識の重要性を健康の面から次のように述べている(「著作全集・第一巻」から)。
 「~存在は心のはたらき、思考のみであることが解る。それ故、この世界に於ける本当の力は、思考以外の何ものでもなかった」
 「思考」によって、「物(世界)ができる」。認識や思考によって世界の観え方が変わるのだから、心の持ち方が大事だと説く。
 「去れ、この間違った衛生思想よ、消極なる臆病根性養成法よ」
 いわゆる「べし・べからず」の健康法はやめよと。
 
 巻の最終頁、最終文は
 「私は、治療の対象は疾病そのものに置くべきではなく、端的に生命に対して行ふべきだ、と主張するものであります。」 
 「いのち」とは、ひとや万物を生かしているハタラキである。それを自然や宇宙、道(タオ)、神と言い替えても良い。人の叡知の及ばない処である。その自然の理に対してアプローチせよということ。
 「いのちの真理を解明し、存在の実相を究める」ことが大事であり、具体的に野口氏の主宰する全生の会では、「全生の詞(われ在り、われは宇宙の中心なり~)」を念唱する。この詞は、世界は自分と繋がっているということを言っている。繰り返し念唱するのは、深く理解するためである(表面的な理解ではからだが変わらない)。
 
 私は、それを念じることはないが、自分の方法で「いのち」に合わせようとする。「いのち」とは自然の法則である。個人の思惑を外し、「いのち」を認識することで、からだが変わる。「立ち方」が良くなることでそれが分かる。


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基本か型か

2017-02-10 09:10:58 | 太極拳
 某スポーツクラブで陳式太極拳を指導している。型(套路)は終了して、次は質的向上を目指す段階なのだが、どうもこちらの意図が生徒に通じないようだ。
 型はいくら繰り返し練習しても質的に向上することはない。自転車を何十年乗っても美しい乗り方になることはないし、箸を毎日使っていても使い方のレベルが上るわけではないのと同じである。質を上げるには、今までとは違う練習が必要だ。それは基本練習である。私の場合基本練習といえば「立ち方」を良くすることだ。「立ち方」といっても形ではなく、内側の問題。筋肉の弛緩と緊張のバランスである。「立ち方」のバランスが悪いのに、どうして型が上手くできようか。生徒は恐らくバランスの悪さを自覚していない。普通に立って生活しているのだから問題ないはずだと単純に思っているのだろう。
 幸い私は野口整体を勉強したお陰で、からだの感覚に敏感になった。「立った」ときに良いか悪いか分かるようになった。からだの何処に力が入って抜けないのか、ピンポイントで把握できるようになった。歪む原因は必ず意識(考え方)と関係があるということも分かった。意識を変えない限り、よいバランスにはならない。
 こういう事を以前から言っているのだが、伝わらない。先日も立つ練習をした後、24式班を見るためにその場を離れると、彼らはもう「型」を始めている。
 他人に「思い」を伝えることは本当に難しい(もちろん、教室や生徒一人ひとりで違うのだが…)。生徒たちに今後、どうしたいのか訊いた。基本練習「立つ」をキチンとやるか、基本はやらずに型だけをやるか。次回各々答えてもらうことにした。もしも「型だけで良い」と言われても、受け容れるつもりだ。人が違えば太極拳に対する思い・考えが違って然りである。

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「立つ」練習 初期段階

2017-02-03 16:28:13 | 「立つ」健康法
キチンと「立とう」とする時、最初にすることは、「みぞおち」の力を弛めること。そうするとからだは動き出す。丹田の充実が始まり、自然な腹式呼吸になる。よく腹式呼吸が良いからと、みぞおちが硬いのに無理やり腹を膨らまそうとする人がいるが、そうではない。「みぞおち」を弛めることが先である。
からだの何処の力をどの程度抜いたら良いのかは、からだが絶妙なタイミングで教えてくれるから、それに従って行けばよい。
肩や腕の力が抜けると、その存在を感じなくなる。肩と胸の境が無くなり、つながっているように感じる。腕は胴体に吸収されているように感じる。頭と首が同じ太さに思えて、2本ある足は1本にしか感じない。要するに頭から足の裏までが1本になる。五体ではなく、一体感である。全身が「頭」といえば「頭」、全身が「腹」といえば「腹」にも感じる。
弛めれば弛めるほど、丹田は拡張を続け、全身に拡がる。一つの呼吸に全身が反応する。吸った時と吐いた時では、掌や足の裏、顔の筋肉が変わる。腹式呼吸より発展した全身呼吸と言っても良い。
流行りのマインドフルネスでは、「ふくらむ ふくらむ」とイメージするらしいが、全身を使った呼吸が実現できれば、わざわざイメージしなくても、その如く実感できるのだ。

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