教室などで「立つ」練習をして、誰かが良い「立ち方」になると、私も嬉しくなる。その喜びは、愉気法のように掌を当てたり、整体をして変わったときよりも遥かに大きい。愉気法や整体を受けた人は、「してもらった」という意識になりがちで、それでは自分のからだを信じられず、「頼る」気持が抜けない。
一方「立つ」は、自分の力に拠ってからだを変えていることを自覚できる。自分でからだをコントロールしている(整えている)自覚があることは、からだに対する自信にもなるだろう。
からだの各処はその機能を十全に働かせているが、主宰者である自分が何もしないでいいわけではない。「立つ」ことを通して自分(意識)と、からだの距離を近づける。その一体感が静かに表情やからだに現れる。本人だけでなく、それを観ている人もまた嬉しくなるのである。
一方「立つ」は、自分の力に拠ってからだを変えていることを自覚できる。自分でからだをコントロールしている(整えている)自覚があることは、からだに対する自信にもなるだろう。
からだの各処はその機能を十全に働かせているが、主宰者である自分が何もしないでいいわけではない。「立つ」ことを通して自分(意識)と、からだの距離を近づける。その一体感が静かに表情やからだに現れる。本人だけでなく、それを観ている人もまた嬉しくなるのである。