気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

よい「立ち方」を観るのは嬉しい

2020-06-27 08:49:25 | 「立つ」健康法
 教室などで「立つ」練習をして、誰かが良い「立ち方」になると、私も嬉しくなる。その喜びは、愉気法のように掌を当てたり、整体をして変わったときよりも遥かに大きい。愉気法や整体を受けた人は、「してもらった」という意識になりがちで、それでは自分のからだを信じられず、「頼る」気持が抜けない。
 一方「立つ」は、自分の力に拠ってからだを変えていることを自覚できる。自分でからだをコントロールしている(整えている)自覚があることは、からだに対する自信にもなるだろう。
 からだの各処はその機能を十全に働かせているが、主宰者である自分が何もしないでいいわけではない。「立つ」ことを通して自分(意識)と、からだの距離を近づける。その一体感が静かに表情やからだに現れる。本人だけでなく、それを観ている人もまた嬉しくなるのである。

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コロナ禍における野口晴哉氏の思想

2020-06-19 08:15:04 | 野口整体
 野口整体の根本思想は、生命への絶対の信頼である。西洋的な医療や薬に頼らず自分の身心を信じて行く思想は、現実的ではないかも知れないが力強く生きる力になる。コロナ禍を生きるヒントになるのではないかと思い、創始者・野口晴哉氏の言葉を紹介したい。昭和19年頃に、病菌に対する人のとるべき対応を語ったもの(「野口晴哉著作全集2・302~305頁参照)に、私見を加えて解説する。

人間より病菌を強しと言ひ、生命より医術を重んじ、生きてゐることをいよいよ外物のせゐにしてしまふ。

野口整体では生命が直に現れた「からだ」を絶対的に信頼する。多くの人はからだを信じられないから医術を重んじ、他のものを頼ってしまうのである。この考えは臨済の「(悟りを)外に求めるなかれ(仏は自分のこころだ)」に共通する。

食い物に食われ~薬に治されてゐるが如く教え込んで~ただでさえ弱い人間の気持を脅かし、その上いろいろの可し可からずを並べ立てて、その守り切れぬ不安につき落して、頼りたい気持をそそることは、考えようによっては罪なことである。

健康に良さそうな食品を追い求め、健康なのは薬のおかげだと思い込む。食べ物や薬が悪いわけではなく、からだへの信頼を持たずに食や薬に頼るのは如何なものかと言っているのである。

それだけでなく人間の敵をいよいよ探し出して多くし、その害力を丁寧に説明するから、いよいよ病人は怯えて小さくなり~護るものや補ふものにしがみつく。

マスコミの報道や政府の発表を聞くほど、人はますます怯えてしまうものだ。

病菌と人間が両立し得ないものと決めてしまふより他に考えやうはなかったのだろうか。眼に見えないだけに、勝たねばならぬやうなつもりになったら、一瞬間も油断なく用心しても尚不安だ。人間はいよいよ焦々して、その息をかき乱さないではゐられない。

かうして病菌を憎んで生きてゐることは単に忙しいだけでなく、吾々の心の静けさを破り、殻を着けるもとだ。

人間の臆病な考えを捨てさえすれば、病菌も亦人間の友人である。病菌を人間の敵にしてしまったのは、人間の卑屈な気持だ。彼を敵にし憎むのは止さう。

相手が病菌だからといって、人間の愛情をその一瞬でも失って生きてゐるということは惜しい。病菌だって生きものだから、愛情を寄せられぬことはあるまい。人間の心ってそんな狭いものではない筈だ。しかしそれがどうしても厭なら、病菌などで自分の息を乱してゐてはつまらない、とでも自分に言ってきかせて、静かな心を保つがよい。

ここで野口氏は価値の転換を図る(とても荘子的だ!)。病菌は憎み排除するものではなく、共存すべきものだと言っている(善悪の基準で判断していない。経済を考慮し、仕方なく共存しているのとは次元が違う)。なぜならば息や心が乱れることは不健康なことだからである。「殻を着ける」は、心が静かであればそれに従って生きて行けばよいが、心が乱れれば頼れなくなり、他の何か(殻)を求めてしまう、の意味だろう。

本当の健康法とは息を乱さないことだ

養生といふことから見れば、悲しいことも嬉しいことも、泣くも笑ふも、激しいことはよくない。怒るのでも、憂ふるのでも、息の静けさを破るほどではいけない。

お互いに余り鼻息を荒くしたり、声をはずませたり、吐息したりしないで、いつも深い静かな息をし続けられる心に生きたいものである。

野口氏の考える整体(理想の身心の状態)は、心が静かで息が乱れていない状態である。それを乱すものは喜怒哀楽でけではなく、認識もまた関係がある。病菌を「怖れる」「憎む」「排除」という意識が強ければ、息は乱れるだろう。先ずは一旦受け入れて、息が落ち着いた後、それを乱さないように思考し、行動することだ。

 現在、コロナ禍に対して制度・環境・衛生などあらゆる方面で対策が取られているが、個人はただそれに従って行くだけでよいのだろうか。たとえ表面上は大きな流れに従っているようでも、個人としての自分を保つことは何より大事なことである。人は国を変えることができなくても、自分を作ることはできる。自分を整え、身心の主宰者になることだ。





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久しぶりの腰痛に「立つ」を試す

2020-06-11 15:52:45 | 「立つ」健康法
 昨日、久しぶりに腰に痛みを感じた。原因はからだの使い方の問題ではなくて、一週間ほど前の「がっかり」したこと。「がっかり」といっても趣味でのことだから、傍から見れば何てことのないことだろう。
 「がっかり」すると力が抜ける(野口晴哉氏ならば、「がっかりして力が抜けないのなら、それは本当にがっかりしたのではない」というかも知れない)。そういう状態の時にからだを動かそうとすると、余分な力を加えてしまい、バランスを崩す。日々の「立つ」練習で整えてきたが、昨日何らかのきっかけで痛みが生じた。先日の「がっかり」が「痛み」になって表れたのである。真っ直ぐに立つだけでも痛いから自然と「猫背」になる。
 そこで私の取るべき方法は、やはりキチンと「立つ」こと。みぞおちを弛めるだけで、からだは猫背から起き上がってくる。全身の力が弛み、揃ってくるからである。まるでゴムボールの中の空気が、偏りなく分散されている感じである。痛みや違和感は半減した。たったこれだけのことに感動する。
 今朝起きると、昨日ほどではないが痛む。そこでみぞおちを弛めるとバランスが回復する。何度か繰り返すと「よいバランスの状態」が基準になってきて、そう崩れなくなった。多少痛みがあっても、うろたえずにふつうに生活ができればいいのである。
 

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周りとの一体感・・・個人的な体感

2020-06-06 07:02:43 | 「立つ」健康法
 自分と周りの物物がつながるような感覚は、ふつうの生活の中ではなかなか得られない。自分を強く意識している日常では、自他の区別が明確で、周りとつながることができない。そのような「一体感」は、自分を「消した」ときにはじめて得られる感覚なのである。自分を消すと、周りの方が近づいてきて、知らず知らずのうちにつながっている。
 「自分を消す」ということは、どういうことなのか。それは透明人間になることではなく、「本質」を取ってしまうことである。本質とは人がその物に与えた意味のようなものであるから、もう一度それをはく奪してしまえば、名や意味を持たない元のナニカに戻るのである。それが「自分を消す」ことである。
 しかしだからと言って自分や物物を本質抜きで考えることなどすぐにはできない。私たちは長年物物に名を付け意味を付け、考えるクセがついているからである。そこで「からだ」を使うのである。意識だけで自分を消そうとせずに、同時に「からだ」も使っていくことで、「消し」易くなるのである。みぞおちを弛めることから始めて、全身呼吸、からだの一体感、輪郭消し…と続けていく。そうすると意識よりも前にからだが、その存在を消していく。からだの力が抜けると、からだをまるで空気のように感じる。実体としてのからだの存在が薄くなる。そのようなからだの状態になると、意識もからだの感覚に影響されて存在が薄くなる。この練習をするときに、「本質を消そう」などと思うことはない。ただ力を抜いていくと結果的に自分に対する執着が減り、周りとの一体感を感じられる。
 
 念のために言っておくと、私は本質を否定しているわけではない。日常のほとんどは本質を意識して生活しているが、日に何度か本質抜きの状態を作りたいと思っている。周りとの「一体感」を得た後に観える風景は、本質のみのときとは違い、一体感もありながら同時に周りの物物も名を持ち意味を持ち、それぞれ存在しているのである。

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