モノを相対的にではなく、一つに見たいと思うのは、幼いときの記憶と関係があるのではないかと思っています。幼いときには、大人ほどモノを分けて見ません。母親のことはわかっても、第三者の区別を正確につけることはできないし、触れるものや景色に対しても、たとえ違いがわかったとしても、それを誰が所有しているモノなのかまでは思慮が至りません。そのような見方を「拙い」「分別がない」などと否定的に捉えるのではなく、肯定的に考えることもできます。
幼いときのそういうモノを明確に分けない「曖昧」な見方は、体感的に「よい」ものとして記憶されるのではないかと思います。それはその頃に周りからの愛情を受けていたからということだけでなく、自身のモノの見方そのものがよかったからです。モノを曖昧にすることは、敵もいなくなるし、出会うものすべてが自分のものだと思うことができます。そして何よりも自由な感じがあるのです。それがよい体験だったからこそ大人になっても、幼いときと同様にモノを曖昧(一つ)に見ようとすれば、身心が変わるのです。
幼いときには自然にやっていた「モノを曖昧(一つ)に見る」ということも、大人になるにしたがって、できなくなります。それでもまったくできないわけではなく、方法はいくつもあります。私はたまたま「キチンと立つ」という方法で、それを実現しようとしています。幼いときに刻まれた記憶が、人よりも強く残っているからかも知れませんが。
幼いときのそういうモノを明確に分けない「曖昧」な見方は、体感的に「よい」ものとして記憶されるのではないかと思います。それはその頃に周りからの愛情を受けていたからということだけでなく、自身のモノの見方そのものがよかったからです。モノを曖昧にすることは、敵もいなくなるし、出会うものすべてが自分のものだと思うことができます。そして何よりも自由な感じがあるのです。それがよい体験だったからこそ大人になっても、幼いときと同様にモノを曖昧(一つ)に見ようとすれば、身心が変わるのです。
幼いときには自然にやっていた「モノを曖昧(一つ)に見る」ということも、大人になるにしたがって、できなくなります。それでもまったくできないわけではなく、方法はいくつもあります。私はたまたま「キチンと立つ」という方法で、それを実現しようとしています。幼いときに刻まれた記憶が、人よりも強く残っているからかも知れませんが。