キチント立つために、足の裏は特に大事な処である。体重はすべて、左右の足の裏にかかっている。
しかし、いくら大事だからと言って足の裏だけを意識しても上手くは立てない。
言うまでもなく、足の裏は身体の末端である。しかしそういう常識的な認識を持つよりも、身体は実際よりも大きく考えた方が、結果的に立ちやすくなるのである。たとえば、身体が上下前後左右にそれぞれ30センチ程度拡がったように想像してみると、からだの力が抜けて、軽く感じる。「身体が大きく」と言ったが、要は身体以外の処に意識をおくということである。たとえば、部屋の壁や、床や、目に観えるものをできるだけ考える、それから目に観えない空気のようなものも想像できれば尚いい。
私たちは普段、自分の興味のあるものだけを観ている(意識の偏りがある)が、それがそのまま身体の偏りになっている。だからイメージを使い、できるだけ意識をすべての方向に均等に分散し、偏りを中和させる。偏りは方向だけでなく、比較競争などの目的意識を持つことからも生じるから、それらを中和するために、たとえば一つ一つの物の価値を(自分も含めて)、同等に考えるようにしてみる。日常でこのような意識になることは難しいが、立つ練習においてなら、できないことはない。
東洋哲学には、物事を相対的に観るだけではなく、すべてを平等に観る(全部がつながっている)という観方がある。先述した、部屋の中のものを一つ一つ想像して行くのは、こういう観方に近い。
私は仏教や哲学に詳しくないが、からだの感覚を(物事をとらえる)基準にしてきた結果、このような共通があったことを面白く思う。
しかし、いくら大事だからと言って足の裏だけを意識しても上手くは立てない。
言うまでもなく、足の裏は身体の末端である。しかしそういう常識的な認識を持つよりも、身体は実際よりも大きく考えた方が、結果的に立ちやすくなるのである。たとえば、身体が上下前後左右にそれぞれ30センチ程度拡がったように想像してみると、からだの力が抜けて、軽く感じる。「身体が大きく」と言ったが、要は身体以外の処に意識をおくということである。たとえば、部屋の壁や、床や、目に観えるものをできるだけ考える、それから目に観えない空気のようなものも想像できれば尚いい。
私たちは普段、自分の興味のあるものだけを観ている(意識の偏りがある)が、それがそのまま身体の偏りになっている。だからイメージを使い、できるだけ意識をすべての方向に均等に分散し、偏りを中和させる。偏りは方向だけでなく、比較競争などの目的意識を持つことからも生じるから、それらを中和するために、たとえば一つ一つの物の価値を(自分も含めて)、同等に考えるようにしてみる。日常でこのような意識になることは難しいが、立つ練習においてなら、できないことはない。
東洋哲学には、物事を相対的に観るだけではなく、すべてを平等に観る(全部がつながっている)という観方がある。先述した、部屋の中のものを一つ一つ想像して行くのは、こういう観方に近い。
私は仏教や哲学に詳しくないが、からだの感覚を(物事をとらえる)基準にしてきた結果、このような共通があったことを面白く思う。