気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

コロンス島の細い道

2020-02-15 09:14:44 | 中国
 先日、テレビで「コロンス島(私は中国名の鼓浪嶼の方がなじみがある)」を紹介していた。番組を観ながら私の記憶は徐々に30年以上遡り、記憶が断片的に浮かんでくる。1985年から2年間「厦門大学」に語学留学した。留学して間もない頃、ある留学生が会いたい人がいるからということで、一緒について行ったのがコロンス島を訪ねた最初である。お訪ねした中国人夫妻は上品で、私たちを温かく迎えてくれたことを憶えている(洋館だったかどうか定かではないが、広い家だった)。以後、ときどき島をたずねた。厦門の港から船で20分くらいで行ける。船では座った記憶がなく、いつも鉄柵にもたれて海を観ていた(もしかしたら船の2階にはファーストクラスの席があったかも知れない)。料金ははっきりとは憶えていないが、往復で2~4元くらいではなかっただろうか。
 西洋風の建築物や樹木が日差しを遮り、細い道を日陰にする。メインストリート以外に店はなく、車と自転車の走らない静かな細い道(現在は許可された電気自動車が走るらしい)。「日光岩」という高台から島を見渡すと、オレンジ色の建物と緑色の樹木が混在しているのがよく分かる。
 番組に登場した人たちは、皆コロンス島を愛していた。そこで生まれた人も、外から来た人も。こんな素敵な処で生活していれば、誰でもそんな気になりそうだ。それにしても観光客があまりにも増えてしまった。たとえ島の風貌が変わらなかったとしても、こんなにも人が来れば雰囲気が変わるだろう。島を出て行ってしまう人の気持ちも分かるような気がする。故郷が故郷でなくなってしまったような寂しさがあるのかも知れない。
 人は勝手なもので、自分の故郷は昔のまま変わらずにいてほしいと願う。私のようなたった2年ほどしか通わなかった人間でも、そう思う。「第二の故郷はどこか」と問われれば、はっきりと「厦門(コロンス島を含む)」と答える。将来訪ねることがあれば、誰もいない細い道を歩きたい。私のコロンス島の記憶には音がなく、ただ潮の匂いだけする坂道がある。

*下の写真は当時(1985年~1987年)のもの(上の2枚は友人・下の3枚は父が撮った)
 海の対岸は厦門



日光岩に登る人たち



植物の緑が多い


ジャンクと呼ばれる木造帆船



鄭成功の像(右・大岩の上に立っている)
  

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1985~1987年 中国での食事

2020-01-26 06:58:39 | 中国
 1985~1987年、中国福建省の厦門大学に留学した私はどんなものを食べていたのか、思い出しながら記しておきたい。厦門大学には留学生専用の食堂はなく、当初は中国人学生食堂を利用していた。各人がホウロウのボールのような器を持参し、先ず白米を適量買う。白米は日本のように柔らかくなく、あまりにも固かったので私たちは「ブロック飯(メシ)」と呼んでいた。おかずは洗面器のような入れ物の中に入って並んでいて、その中から2種類ほど選ぶと係の人がお玉ですくって、ブロック飯の上にかけてくれる。どの料理も脂っこくて、食が進まないことも多かった。当時留学生の間で言われいたのが、「男はやせて、女は太る」と。女性はどんなところでもたくましく生きていけるようになっているのかも知れない。
 
 数か月すると、友人たちと外食することが増えた。校内の「小餐'厅(食堂)」の焼きビーフンはお気に入りで、独特の甘辛のタレをつけて食べた。そこにあるまったく泡の立たないビ-ルを私たちは皮肉と愛着をもって「馬のションベンビール」と呼び、それはポリ容器(今でいうピッチャー)にたっぷり入っていて、コスパは抜群だった。
 食後にはいつも日本語を教えているT先生の部屋に行き、珈琲(わざわざ豆から引いてくれた!)をご馳走になった。時には「汾酒(山西省の名酒。アルコール度数60パーセント以上)」も飲ませてもらったが、それはきつい中にもほのかな旨味のある酒だった(その後汾酒以上に美味しい白酒にであうことはなかった)。T先生には数え上げれば切りがないほどお世話になり、心優しい中国人の学生も紹介してもらった。
 
 大学の裏には海があり、海岸近くにも食堂が並んでいた。そこには行きつけの店があり、肉野菜炒めなどを注文するときには「胡椒を多めにね」とお願いした。そこの茶色い炒飯は加飯酒(紹興酒)を調味用として入れるのが妙で、時に入れすぎて酒臭いこともあったが美味かった。今でも一口食べれば、厦門の空の青さと、海から吹く風を感じることができるだろう。
 
 そういえば時々、同室のLちゃんと自炊もした。豚肉やキャベツを市場で買ってきてガスコンロで炒めて食べた。キャベツの芯まで食べていたら、ある留学生に「芯には有毒物質がたまるから、癌になりやすいのよ」とアドバイス?されたので、それからは芯を食べなくなった。タイの留学生にもらった辛い調味料はクセになるほど美味しかった。
 留学生仲間との宴会は頻繁にあり、一人一品持ち寄りのときには、白米を炊くのが私の役目だった。西洋の留学生はサラダなどを作ってくれた。中国では生野菜を食べる習慣がないから、貴重だった。

 厦門は海鮮が豊富だから街に行けば蟹や蝦、鍋などを食べさせる店はあったが、今回は日常の食を取り上げた。
 

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灰色の北京

2018-11-17 09:48:20 | 中国
 
北京の記憶の断片は
灰色をしている
大学の門 壁 宿舎 
毛沢東像 水餃子 腐った水の流れる川
建国門 前門 和平門 
灰色の外に付けられる色が見つからない

練炭は倉庫の中で黒く積まれ 
自転車は喧騒の中を黒く走り
夜空が降りて地面を黒く照らす


私の好きだった北京は 灰色と黒色の間にある
墨だけで描ける世界は まだ幸せなのかも知れない


 


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白帝城

2018-05-27 10:10:18 | 中国
 二十数年前、私は友と共に三峡を旅した。船に乗って長江を下るのである。陽が沈んだ後、両岸に迫る山並みを見上げていると、絶壁の頂きに建物らしきものがある。程なくそれが白帝城だと知る。群青の空に影絵のように黒く浮かび上がる白帝城。山と空の接点にある城に、微かに人の息吹を感じる。
 迷うことなく次の船着き場「奉節」で降りた。切符を無駄にしても白帝城に登りたいと思ったのだ。実際の白帝城には三国時代の面影を感じなかったが、私は劉備の幻影を見ることよりも、李白の詩情を味わうよりも、湧き上がるものに乗じて動きたかったのだ。私が感じた息吹は、名もない蜀の兵士のものだったのかも知れない。

 数年後、長江に巨大なダムができて水位が上昇し、白帝城は孤島化した。あの光景はもう観ることはできない。
 
 豪華客船ではなくオンボロの小型船に乗り、私の気まぐれに嫌な顔一つせずに付き合ってくれた友、元気で過ごしているだろう。



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沙漠の少年

2016-12-22 10:55:32 | 中国
それは何度目の旅だっただろうか…シルクロードに向かう汽車に乗っていた。窓際の補助席に座り、沙漠をぼんやりと眺めていた。恐らく数千年前とさほど変わらない凸凹の荒野が、もう十数時間も流れている。
少年が一人視界に入ったが、依然として私は絵を構成する風景の一つとしてしか捉えていなかった。冬用のジャンバーに膨らんだ身体がスローモーションのように動いた次の瞬間、私の顔に「土の塊」がぶつかった?!実際には窓があったから、直接は当たらなかったものの、ガラスを通して衝撃は伝わった。絵の中から本物が飛び出したのだ。

私のアタマは混乱した。何故、汽車に向かって「土の塊」を投げたのか…
何故こんな処に一人でいるんだ…
家は近くにあるのだろうか。何十分も歩いてきたのか…


子どもがよく川や池に小石を投げるように遊んでいたのではない。
あの頃、線路に並行して「白い線」があった。弁当の発泡スチロールのケースを、窓から投げ捨てたものが「白い線」に成っていた。
彼は自分の住む村が汚されることに対して、憤慨していたのだ。汽車に対する憧れもあったのかもしれない。

自分が小さかった頃、個人的な怒り以外に怒りはなかった。比べてこの少年の怒りのスケールの大きさよ!自分の何万倍もある汽車に一人で立ち向かう勇気は何処から出たのだろう。沙漠もまた、彼の味方だったに違いない。




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