気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「歳をとる」ことの良さ

2013-09-27 16:27:52 | 

 久しぶりに会った友人に、「歳をとることは良いことだと思わないか?」と訊かれた。一緒にいたもう一人の友人は即賛同したが、私は答えに詰まった。いままでそういうことを考えたことが無かったからだ。自分の答えを出す前に、彼らがどうしてそう思えるのかを、考えてみたい。

 「歳をとる」ということは、「身体」から見れば、(ある年齢からは)衰えていくということである。見た目だけでなく体力的ににも衰える。若い時には無理がきいて、一晩中遊んでいても翌日仕事ができるが、歳とともにだんだんそういうことがキツくなる。また歳を重ねると、次第にカラダのアチコチに故障が出てくるものだ。二人の友は、そういう肉体の衰えを受け容れる「覚悟」があり、それによって人生の幸不幸が変わることがない。もっと言えば、誰でも身体の衰えは意識するしないにかかわらず「死」に向かっているのだが、彼らは事前にそれを恐れたりはしない。死の直前に狼狽えることはあったとしても。

 ココロ(精神的に)はどうだろう。 彼らは、将来の大きな夢を語ることよりも、日々を大事に生きようとする。一日(現在)という「点」を、キチンと生きることで、時間の「線」上にある過去と未来への意識は自ずと薄くなっていく。彼らとの話の中には、自分の過去・未来や他者との比較などは、ほとんど出てこない。比較しないということは、現実を肯定できる。また彼らの口から未来の事に対して使われる「信じる」などという言葉は出て来ない。はじめから自分を信じているのだから、わざわざ言う必要がないのである。「信じる」ということは、上手くいくことを信じているのではなく、どっちに転んでも(たとえ悪い結果になったとしても)、それを受け容れる覚悟があるということである。

 歳とともに知識と経験は増えて行く。それによって今まで表面的にしか見えなかったものが、より立体的に浮かび上がって、面白く感じられるようになる。二人ともジャンルは違うが音楽をやっている。音楽を続けていくと、確実に「深まっていく」何かを感じられる。それが「歳をとる」ことを喜びにして、より深く人生を味わうことになっているのではないだろうか。

 


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窓を挟んで

2013-09-20 19:33:47 | 

 先日の台風18号の時、私は窓の外を見ていた。と言っても風に揺れる山の木々ではなく、窓のすぐ数センチ前に居る「蜘蛛」である。

20130919

 いったい何時からここに居るのだろうか。一ヶ月くらい前には居たような気がするが定かではない。窓の外の景色に焦点を合わせると、蜘蛛の姿は消えてしまう。カメラもオートで撮影ようとすると蜘蛛を認知せず、蜘蛛の身体を突き抜け、奥の景色にピント合わせてしまう。蜘蛛は観ようと思わなければ見えないのだ。

 ある時から、蜘蛛が2匹になった。

 台風18号の暴風雨の中、巣は大きく揺れ、蜘蛛の身体は、鉄棒選手のようにクルクルと回転した。風が強く吹くと回転も速くなった。

 台風が通過すると、何もなかったかのように蜘蛛も落ち着いていた。人も飛ばされされそうになるほどの風でも、蜘蛛はその小さな知恵で克服した。

 事件?は翌日に起きた。小さい方の蜘蛛が大きい方に駆け寄り、いきなり喧嘩?を始めた。数秒後、大きい方は窓の下の方に逃げて行った。一晩そこにいたが、翌日には姿を消した。蜘蛛の世界でも、関係を保つのは大変なことなのかも知れない。


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野口整体にマニュアルは無い

2013-09-13 16:16:42 | 野口整体

 野口整体を学び始めた頃、私は野口整体の思想を学ぶことよりも、とにかく「技術」を習得したいという想いが強かった。たとえば咳が出た時には、何処を抑えたらいいのか。腹痛の時には、何処を抑えたらいいのか。そういうマニュアル的なものを求めていたのである。しかし、野口氏の著作には、そういうことは書かれていない。いや、実際には多少は書いてあるのだが、字面だけを読み、知識として得ても、技術としては使えない。

 野口氏は、整体操法には「機・度・間」が大事だと説いた。何時、整体をするのが良いのか(或いはしない方が良いのか)、どの程度の力と間隔で抑えるのか、それはひとによって違う。百人百様の身体に臨機応変に対応しようとすることが野口整体であり、技術を体系化するようなマニュアルは作れない。

 野口氏は、万人に合う体操など無いことは分かっていたから、活元運動を作った。活元運動は、決まった型が無いからこそ、本人だけに合う体操になり得る。愉気法にしても特定の場処に手を当てるのではなく、当てる時間や手の重さなども人によって違うのが自然なのである。

 人によって違う身体を、どうやって識別するのか。その「観察力」を身に付けるには、まず自分のカラダを知らなければならない。そのためには、活元運動や気功、瞑想などによって、自分のカラダを深く見つめる時間が必要だ。それを通して得られる感覚を、規準とするのである。そういう生活をしていくうちに、身体(感覚)は磨かれ、整体に近づいていく。指導者になりたい人は、技術を学ぶ前に、そうあるべきだと思う。 


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野口整体を学ぶということは

2013-09-06 16:28:19 | 野口整体

 野口整体を勉強したいなら、まず創始者である野口晴哉氏の著作を読むことだ。入門に一番相応しい本は「健康生活の原理」だが、「整体入門」、「風邪の効用」でも良いだろう。

 野口整体の概略を知ることよりも大事なことは、野口晴哉氏の思想を掴むことである。著作を繰り返し読めば、氏の健康観や哲学(生き方)が、少しづつ分ってくる。何故それが大事なのかと言えば、野口整体は技術ではなく、生き方そのものが問われるからである。野口整体を学ぶということは、野口晴哉氏の生き方を学ぶことにほかならない。もちろん野口整体にも「整体操法」などの技術があるが、それらの全てには、野口整体の思想・哲学の裏付けがある。思想・哲学の裏付けのない技術は有り得ないのである。だから野口整体は、巷によくある「整体師養成3ヶ月コース」のように、技術だけを伝授するようなものとは、全く似ていないのだ。

 野口整体の思想を身に付けるには、本を読むだけでも可能である。しかしそれは、さらさらと上辺を読むのではなく、ゆっくりと意味を理解しながら進むべきである。野口氏の文章は、誰でも分かるように書かれているが、真の意味は深い。自分の身体を整え、整体に近づけば、本から汲み取れる量が増えてくる(理解の程度が深くなる)。

 野口整体には「活元運動」「愉気法」という独特の技術(調整法)がある。その方法が本に書いてあるので、見ながらやれば、誰でもできる。活元運動は動きが出ないかもしれないが、気にすることはない(いつか出てしまうものだから)。愉気法は今すぐできる。

 もし、将来野口整体の指導者(技術者)になりたいのなら、まず、自分が「覚悟」をしなければならない。野口整体的な生き方をするという覚悟である。自分に覚悟ができれば、いずれ野口整体的な生き方をしている覚悟のある指導者に出会うことができるだろう(覚悟の無い指導者を見抜くことができるだろう)。

 


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