気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

姿勢は個性

2015-10-31 09:43:19 | 「立つ」健康法
 昨晩一緒に酒を呑んだのは、以前通っていた中国語の通訳養成学校のクラスメイト二人。一人は十数年ぶり、もう一人は二十数年ぶりの再会である。居酒屋の二階で待ち、階段を上がって来た姿を観たときにすぐに分かった。顔ではなくて、姿勢で。からだの使い方はそう変わるものではない(意識すれば変わるが)。
 この二人、仕事で中国語を使っているという。私は禅の本を読むときくらいだが…

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「立つ」ことは古典

2015-10-25 19:28:58 | 「立つ」健康法
 ここ半年くらい禅の本をあれこれと読んできたが、先週くらいから休んでいる。特に理由があるわけではなく、何となくである。しばらくすればまた読みたくなるだろう。老子や荘子も年に数回、読みたくなるものだ。内容は分かっていても読みたくなるのは、何かしらの刺激を期待しているのかも知れない。刺激と言っても、自分に付け足していくようなものだけではなく、過ぎたものを減らすようなものもある。いずれにしろ人の「繰り返し」に耐え得る力のあるものが「古典」である。
 私のしている「ただ立つ」というシンプルな練習は、外的刺激を求めないから、つまらなそうに思われる。しかし、だからからこそ得られる「快」がある。ここで注意したいのは、自分の内側へ向かう知的好奇心が強すぎると、外をシャットアウトして自分の裡だけで満足しようとしてしまう。これもまた偏りである。
 求めないことと、求めることの双方がバランスよく調和していること。それが自然体であり、十分繰り返しに耐え得る。

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「ただ立つ」ように歌う

2015-10-16 14:41:25 | 「立つ」健康法
 自分の歌を録音して聴いてみると「不自然」な感じがする。録音するときに、少し緊張しているのかも知れない。良く歌いたいという思いがどこかにあって、それが緊張を引き起こし、バランスを崩しているのかも知れない。
 「ただ立つ」練習をしている時には緊張も無くバランス良く立てる。太極拳をするときも、ある程度そのバランスを維持することができる。しかし生徒を見ていると、立ち方の練習ではそれなりにバランスが良くなるが、いざ太極拳になるとからだがバラバラになってしまう。意識が動作の方に過剰にいってしまうからだろう。私の歌も生徒たちの太極拳と同じように、バランスが悪いのである。
 「ただ立って」いる時と同じバランスで、歌が唄えるようにしたい。上手くはならないかも知れないが、自分らしい歌が唄えるのではないだろうか。ただ歌は太極拳と違い歌詞(言葉)があるので、脳を働かせ易いのである(脳を使うことは筋肉の緊張になる)。そこが難しい。

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どういう時計が好きですか

2015-10-08 11:02:17 | 
【フェイスブックに載せたものです】

「貴方はどういう腕時計が好きですか」と訊かれたらどう答えますか?この質問を受けたことがなければ、どうぞ答えを用意してから下へお進みください。

 北京に留学していた1991年頃、ブルガリアの友人とその彼女(ポーランド人)と歩いていた時に、不意にこんな質問をされた(中国語の拙さはお許し下さい)。
「Maki san你喜欢什么样的手表?(マキさんはどういう腕時計が好き?)」
「我不喜欢带手表。(時計をするのは好きじゃないんだ)」
「为什么呢?(どうして?)」
「好像有被束缚的感觉。(なんだか束縛されているみたいだから)」
「那么对你来说,手表是有什么存在意义?(ではあなたにとって腕時計はどういう<意義の>物?)」
「没什么,我不需要。(特にはないな。必要ないし」
「那你要知道时间的时候,怎么办呢?(時間が知りたい時にはどうするの?)」
「没问题。因为到处都有钟表。(大丈夫。だって時計は何処にでもあるじゃない)」
 そう答えると彼らに大笑いされた。彼らが言うには、腕時計に対する思いは異性に対するそれと同じらしい。なるほど、笑われるに値する?答えをしている。
 人によっては、時計の見た目を重視する人もいるだろう。高級なものを選ぶ人もいるだろう。安くても使えればいいという考えもあるし、大小形の好みを言う人もいるだろう。私は形や機能以前に、できれば時計によって時間を身近に感じたくないと思っている人間である。もし今、彼らに同じ質問をされたら「時を刻まない時計ならつけてもいいかな」と応じたい。往々にして女性は(もちろん男性も)時間という現実をもって現れる。存在することに時間は不可欠だから、当然といえば当然だ。恋をすることは相手の時間を奪い、共有することである。
 ところで時間というものは誰にでも同じように流れているものなのだろうか。体感的には速かったりゆっくりだったりするのだが…。川上選手の「ボールが止まって観える」じゃないけれど、限りなく止まっているように感じることもある。もしかしたら眼の前の一瞬一瞬は映画のフィルムのように止まっているのではないか(私たちが時間を流れているものと錯覚している)。一枚の絵は止まっているが故に、そこに描かれている各々は表面的には主・副、美醜の差別がありながらも何一つ無駄なものが無く、根本ではそれらが関係し合いながら存在する。四季の移ろいを時間で区切ることもできるが、あえて時間を止めれば、一枚の絵を味わうように生きることが出来るかも知れない。時間を止めることは至難だが、腕時計を持たないことならできる。

 イングリット・バーグマンの青い瞳も、フィルムの一枚の中に在ると思えばこそ未だに存在し続ける。それは物理的なものとしてではなく、こちらがそれを一枚の絵として捉えたからである。
 時を持たなければ、いつか「時を持たない女性」と出会えるかもしれない。

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「立つ」ときの意識

2015-10-03 08:11:36 | 「立つ」健康法
 「関係ない」という言葉を良く耳にするし、使いもする。仏教ではすべてのものが縁でつながっているという。縁起云々は分からないが「立つ」ことに於いて、多くのモノが関係していることは分かる。
 部屋の中に居るのであれば、眼の前にあるものを一つ一つ意識していく。カーテン、カーテンレール、コンセント、本棚…。一つ一つ意識していく作業は、ジグソーパズルのピースを埋めていくことに似ている。完成すれば一枚の絵に成る。私たちは普段、興味のある処だけを見ていて、眼に見える景色を一枚の絵や写真の様には観ていない。
 気功などでは雑念を排除せよという。私の方法は雑念を減らそうとするのではなく、雑念が湧きづらい状況を作ろうとする。意識するモノを増やしていくことは、雑念を増やしていくことにはならない。

意識即雑念 ではない
意識即緊張 ではない

 意識が過剰になったもの(執着)は雑念であり、緊張につながる。淡々と物事を意識しているときには、良い立ち方ができる。大きな意識の変動も起こりづらくなる。
 周りにあるモノは、意識することで身心が変わるのだから「関係ない」ことはないのである。

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