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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

こころとからだの前にある気

2019-04-27 09:37:12 | 「立つ」健康法
 「自分」と言った時に、それが指すのは自分の「こころ(意識)」か「からだ」である。荘子は「人之生 氣之聚也 聚則為生 散則為死(人が生きるのは気が集まるからである。集まれば生き、散じれば死ぬのである)」と言っている。こころとからだの前に気をおいているのである。こころとからだは相対的な範囲を出ないが、気は絶対の一である。
 「立つ」練習をしているときに「気」を意識すると、立ち方が変わる。こころとからだの前にある「気」を考えると、少し「ゆとり」のようなものが生まれる。一の世界には比較や競争がなく、緊張の仕様がないからだろう。立っていると、こころとからだの存在が薄くなり、雰囲気(感覚)がずいぶん変わってくるのを感じる。
 「気を意識する」とは気の概念を深く認識することである。アタマだけでなく、からだも同時に使いながら意識(イメージ)するのである。映像的なイメージの方が比較的行ないやすい。たとえば、からだの中に「気」があって、外に皮膚と服が張り付いているようなイメージを持つ方法だ。
 「気」のイメージを「渾沌」や「道」に変えてもいい。要するに、すべてがつながった一つのものであるならばいいのである。
 一つになったイメージ(感覚)ができても、それが終点ではない。一度薄くなった自分のこころやからだの存在が再びよみがえり、他人やその他の物ものもまたはっきりとしてくる。そのとき形は違っても、質的には自他を同質(同じ気)に感じるのである。私はこの状態を、今作り得る一番の自然体だと考えている。しかしこういう状態は長続きしない。日常生活にともない、こころとからだの使い方の癖が現れるからである。それでも意味がないわけではない。時々でも、こころとからだを良い状態(自分らしい状態)にすることは大事なことである。

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言葉と立つことで自分を知る

2019-04-20 10:25:09 | 「立つ」健康法
 私は、自身が今話そうとしている内容の全貌を知らない。知っているのは冒頭だけかも知れないし、およそは知っているつもりになっているのかも知れない。いずれにしても、自分の中にある既に出来上がった話を口にしているのではなく、話し始めることによって動き出す全身が瞬間毎に創り出す「何か」を、言葉の形を借りて口にしているのである(仕事その他でやむを得ず形式的な言葉を使うこともある)。簡単に言えば、話してみなければ、何を話すか分からないのである。
 こうして話し出した言葉が正しいとは限らない。文字にした文章を推敲し、書き直すことはよくあることである。しかし、こんこんと湧いて来る言葉をろ過することなく「純」のまま扱うことは、自分を知ることになる。そもそも私は今、この瞬間の私を知らないのである。過去の自分を以て、現在や未来の自分を想像してしまう。「キチンと立つ」練習をしていると、普段の自分ではない、もう一人の自分が出て来る。それは、今ここに立っていることを知っている自分である。

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「自分らしい」からだ

2019-04-13 08:49:00 | 「立つ」健康法
 自分の好きな絵を描いている子供を大人がほめると、今度は大人にほめられるために絵を描くようになると、どこかで聞いたことがある。しかしこれは何も子供だけのことではなく、大人だって他者にほめられたい。他者の気持ちを察することは大事なことだが、そのために自分を失ってしまっては行き過ぎである。
 「自分」は、失われるものなのである。自分らしく振舞えない場所や人に会うと、簡単に自分を失う。自分を失った後に、人は再び自分を取り戻すために気分転換をしたりする。友人と話したり、自然の中に行ったり、趣味に没頭したり…
 「自分らしい」状態は結構曖昧なもので、明確に判断できない。後になって、何となく「自分らしい」状態だったと思うのである。自分らしい状態は普通心の状態をいうが、からだの状態も問われるべきである。からだの状態とは、筋肉の緊張と弛緩のバランスである。私は「立つ」練習をしているときに、疑いもなく身心共に「自分らしく」立てていることを実感する。

 

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山女と岩魚に分かれる前にある無名

2019-04-05 13:34:25 | 渓流・鮎釣り
 先週、桂川(山梨)の某沢で、変わった魚が釣れた。山女と岩魚の合いの子のような風貌である。顔は岩魚で胴は山女。パーマーク(斑点)は山女だが、背中の模様は独特である(写真を見た友人は「豹・虎・シマウマ?」と表現したが、なるほどそういう風にも見える)。
 沢のように小さく区切られた空間だから、このような混血?が起きたのだろうか。アタリ(魚信)とひいた感じは岩魚のようだったが、味は山女だった。
 
 この魚は、山女と岩魚に分類したがる私に気づきを与えてくれた。万物には最初から名前がついていたわけではなく、後から名前と意味が与えられたのである。名前のあるものは、名前があるということだけで単独で存在しているのではなく、同時に名前のつく前のもの(老子の無名)が、観えない形で存在している。背後に隠れている無名の存在は、感じようとしなければ感じることはできない。



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