人が誰かを差別するとき、差別をした人の身心には、少なからず影響があると考えています。差別というのは、相手を認めない、蔑む、或いは無視するというもので、相手を自分と同じところ(レベル)には置きません。
人は能力や外形、出身などに違いがありますが、だからといって、差別心を強く持つと、自分の身心を傷つけることになりかねません。
なぜそういうことが言えるかというと、逆に平等に人を見ようとしたときに、身心がよく変わるからです。平等というと博愛主義者と思われるかも知れませんが、そういう思想からではなく、「身心が変わる」ことを色々と試していたら、「自分と他人は同じ」という意識を持つことが身心を変えることになるとわかりました。もちろん「同じ」と言っても、すべて同じなのではなく、共通のものがあるということ。
差別によって相手の存在を否定するには、普段使わない力が要ります。差別用語を発しているときには、力が入っているのです。よって身心のバランスが崩れます(鈍い身体の人にはわかりません)。
平等と言いましたが、そんなにキチンとやらなくても大丈夫です。イメージの練習のときに、ただ「自分と他人は同じだ」と思えばいいのです。私の場合は、「他人も気で、自分も気」というふうにイメージします。そこには感情が絡まないので、親しく相手を受け入れる必要はなく(ハードルは低く)、淡淡とイメージするだけです。