気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

差別するとからだが悪くなる?

2023-07-14 13:48:33 | 「立つ」健康法
 人が誰かを差別するとき、差別をした人の身心には、少なからず影響があると考えています。差別というのは、相手を認めない、蔑む、或いは無視するというもので、相手を自分と同じところ(レベル)には置きません。
 人は能力や外形、出身などに違いがありますが、だからといって、差別心を強く持つと、自分の身心を傷つけることになりかねません。
 なぜそういうことが言えるかというと、逆に平等に人を見ようとしたときに、身心がよく変わるからです。平等というと博愛主義者と思われるかも知れませんが、そういう思想からではなく、「身心が変わる」ことを色々と試していたら、「自分と他人は同じ」という意識を持つことが身心を変えることになるとわかりました。もちろん「同じ」と言っても、すべて同じなのではなく、共通のものがあるということ。
 差別によって相手の存在を否定するには、普段使わない力が要ります。差別用語を発しているときには、力が入っているのです。よって身心のバランスが崩れます(鈍い身体の人にはわかりません)。
 
 平等と言いましたが、そんなにキチンとやらなくても大丈夫です。イメージの練習のときに、ただ「自分と他人は同じだ」と思えばいいのです。私の場合は、「他人も気で、自分も気」というふうにイメージします。そこには感情が絡まないので、親しく相手を受け入れる必要はなく(ハードルは低く)、淡淡とイメージするだけです。

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同じ「気」をみる

2023-07-07 09:45:07 | 「立つ」健康法
 「人の悪いところではなく人の良いところをみなさい」という言葉を、何度か聞いたことがあります。それも結構ですが、私なら「人の気をみませんか」と言いたい。
 「気」には物質的な面やエネルギーとしての面もありますが、万物の根源としての気、すべての人に共通するものとしての気を見るのです。人は同じ気を共有しているからこそ感応することができる。感応するということは「わかる」ということ。それは日常の感覚や知識でわかるのではなく、気のレベルで(相手のことが)わかるということです。「わかる」と言っても何から何までわかるのではなくて、原始的に「人は同じなんだ」ということがわかる。
 私たちは普段、多種多様な価値の中で生活しています。そこに感情(ココロ)が絡んで一層複雑になり、他人のことがわかりづらくなっています。そういう表層的なところから原始的な気のレベルまで降りてきて、自分や他人のことを見てみると、普段は違って見える他人の中に、「共通するもの(気でもいいし、神や自然などでもいい)」を感じることができます。そのような見方ができることが、本来の自分の在り方ではないかと思っています。
 

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