気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

ライヴとアオサギ

2016-08-26 11:11:02 | Gちゃん(友人・ギターの師匠)
 ギターの師匠であり友人のGちゃんが、先月(2016年7月23日)のライヴのビデオを作ってくれた。

Gちゃんは歌っている時と普段と、声がほとんど変わらない(ビデオの最後に彼の声が少し入っている)。これは心境の変化が無いことを現わしている。人前で歌う時でも「平常心」なのである。


 ところで、昨日釣りに行ったら再びアオサギに会った(下の写真の上流にアオサギがいた)

  釣りをしている人間は 竿より上を見ることがない
  釣れない時にようやく空を見る
  期待していない空にアオサギが現れ 
  飛行機のように私の上を通過する
  数羽のアオサギが同時に飛ぶ 空から空へ 木から木へ 
  私の眼は 水中に潜ったり 空を昇ったり
   
  初めてアオサギが鳴いた
  蒸気機関車が発車するときの音に似ている
  鳴いた後 
  それまで下流へと向かっていたのを急に右岸へ方向を変え
  山の中へ吸い込まれた




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アオサギの寝顔

2016-08-18 20:25:51 | 
 小雨が続き、釣りを止めるタイミングを計っていたら、急に大降りになったので、悩むことなく仕舞うことにした。瀬脇を急ぎ、大岩を越えようとした時、想像していないものが眼の前に現れた、アオサギ!

 アオサギは翼を畳んで丸くなり、目を閉じている。やがて少しだけ翼を広げ、頭を垂らし、嘴を横(コチラ)に向けて…まるで眠っているよう。

 自然豊かな川に居るアオサギは神経質で、いくら離れていても、こちらの姿を確認すればすぐに飛び去ってしまう。それが何故今、周りに気を配らず(目と鼻の先にいるのに!)、こんなにも無防備に休んでいる?川と雨の轟音で、私の存在が分からないのではなく、私の意識と関係がある。釣りの最中だったら、私の動きには緊張が漂い、アオサギもそれを感知して逃げたに違いない。私がその「空間」に飛び込めたのは、鮎や釣り、仕掛け…というものから解放されていたからだ。
 対峙中、雨や川の音はしなかった。そこには時間が無く、ただアオサギだけが居た。
 しばらくして我に返ることができたのは、増水する前に川を渡り切らねばという思いがあったからだ。川面に叩きつける雨の中から振り返ってみると、アオサギはとても小さかった。私はもう、その「空間」から遠く離れてしまった。

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蝉・・・この愛しき虫

2016-08-12 20:10:56 | 
 不思議なことがあるものだ。蝉の幼虫に同じ処で二度も会うなんて…
 駅からの帰り道、暗い街灯の下に幼虫がノロノロと歩いていた。この夏2回目、しかも数メートルも違わない処で。近所には数十件の家があり、庭があり木があるのに、何故他ではなく、同じ処で2回も私に拾わせたのか…
 蝉の幼虫を持ち帰り、柿の木に付けた。翌々日の早朝、窓を開けた瞬間、蝉が傍からバタバタバタッと飛び立った。そういえば、20年以上前、笹塚駅近くに住んでいた頃にも同じようなことがあった。仕事から帰宅した後、太極拳の練習をしていると木製の案内板?のような処で蝉が羽化を始めた。近くでは猫がそれを狙っているようだ。それを守るように、しばらく近くで太極拳をした。翌日そこに行き、のぞき込むと、まさにその場所から蝉がスーッと空に向かって飛び立った。抜け殻を残して…

 蝉はそういう何か不思議な虫である。律儀に挨拶をしてから飛んでいくのである(今どきの人間よりも「人」らしい?)。
 今日、鮎釣りに行き、川に降りるために山道を歩いていると、ベルトに差したタモ網の中に蝉が飛び込んで来た(自分から網の中に入るなんてアリエナイ!?)。もちろん逃がしたが、何だか「蝉のことを記事にしてね」と言われている気がしたので、ここに報告することにした。

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一番飽きないもの

2016-08-07 19:31:58 | 
 この時期、毎晩ビールか発泡酒を飲むが、銘柄は決まってはいない。と言うより日替わりで飲むものを変えている。毎日同じものを飲むと飽きてしまうのか、変化させた方が美味しく飲める。毎日食べても、ご飯は飽きないが、おかずは飽きる。煙草は、同じものを吸い続けたが最後には飽きた。
 人はどういうものに飽きて、飽きないのか…。たとえば「自分」はどうだろう。自分が嫌になることはあっても飽きることはない。人生も然り。「飽きる」というのは、(対象物のことを)もうすっかり分かって更には刺激が得られないときにそう思うのだ。人工物ならばそういうこともあるだろう。しかし「人」はどうだ。自分のことも良く分からないのに、他人のことなどどうして分かろうか。自分も他人も変化し続けているのだから、何時だって刺激的である。人はアタマの中でそのものを理解したつもりになるが、身体はそうは思っていない。
 一番飽きないものは「人」だ。身体が知っている。





  
 

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