気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

執着から自然に離れる

2023-10-25 17:06:55 | 「立つ」健康法
 私たちは普段、意識するしないにかかわらず、モノを分けて見ています。電車は電車であり、バスはバスであり、電車とバスが混ざり合って一つになることはありません。私とあなたは別な人間であり、たとえどんなに愛し合っていても一つにはなりません。すべてのモノは分かれているという前提で生きているからです。。
 そういうあまりにも当然なモノの見方に対して、モノをつながった一つのものとして見ようとする見方(別の基準)があります。他者と自分がつながっていて、床と天井、鮎と日本海がつながっている。普段の見方ではあり得ないことを、イメージを使って実現していくのです。実現といっても、それは物理的につながることを意味しません。ただ想像するのです。しかしそれはただの空想ではなく、カラダも使いながら想像していきます。完全にイメージすることができなくても、そこに向かうだけで身心は変わります。もちろん自分にとって良い方向へ。
 
 モノを一つに見ようとするときに、「透明」のイメージを使います。透明は色がないから、すべてのものモノはつながってしまいます。ではすべてを「透明」化して終わりかというと、そうではありません。それを現実に応用します。「透明」によって変わった身心をもって日常のモノをあらためて眺めてみると、普段とは違って見えることに気がつきます。目に映るモノものに変わりはありませんが、何かが特別に目立たなくなります。普段の私たちは興味のあるものだけを見ているのに対して、(完全ではありませんが)モノものが平等に見えて来るのです。そして意識も変わります。いつも気になっているようなことが、そうでもなくなります。
 執着してしまうことをそうしないようにすることは、なかなか大変なことです。考えないようにすればすれほど考えてしまうことはよくあります。しかし上記のようにイメージを使うと、思いのほか簡単に執着から離れることができるのです。



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たとえモノが見えていても 

2023-10-14 10:36:30 | 「立つ」健康法
 「キチンと立つ」練習のときに、「自分も含めてすべてのものが一つにつながっている」とイメージします。ところが人によっては、このようにイメージすることはとても難しいといいます。すべてのものが一つになっている状態を、禅では「空」、老荘では「道」・「渾沌」と呼びます。一つですから、個々が単独で存在していません。
 わかりやすく例えれば、カレーを煮込み過ぎて、ジャガイモやニンジンなど具の形がなくなっている状態、具はすっかり溶けてしまい特定はできませんが、内容(成分)は鍋の中に残っています。このような渾沌とした状態が、「ひとつ」になったイメージです。
 しかし実際の練習(日常の各々の場面)は、煮込み過ぎたカレーとは違い、イメージするモノの形は崩れることなく明確にあります。それらの物ものを、形が変化することなく、周りと一体化しているように想像するのです。部屋の中で練習する場合、床や天井、壁や窓も目に見えたとしても、それはそれぞれが単独で存在しているのではないと考えます。
 常識的には、見えているものは「ある」と考えます。まして触れることができれば、どうしたって「ある」のです。それを「無い」と考えるのがここでの練習です。名前や概念を否定して行くような方法もあるのですが、今はもっと簡単な「透明」のイメージで」練習しています。自分も透明で、他の人や物ものも透明だと考える。そうすると「透明」は輪郭を持たないから、結果的につながって(一つになって)しまうのです。

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