私たちは普段、意識するしないにかかわらず、モノを分けて見ています。電車は電車であり、バスはバスであり、電車とバスが混ざり合って一つになることはありません。私とあなたは別な人間であり、たとえどんなに愛し合っていても一つにはなりません。すべてのモノは分かれているという前提で生きているからです。。
そういうあまりにも当然なモノの見方に対して、モノをつながった一つのものとして見ようとする見方(別の基準)があります。他者と自分がつながっていて、床と天井、鮎と日本海がつながっている。普段の見方ではあり得ないことを、イメージを使って実現していくのです。実現といっても、それは物理的につながることを意味しません。ただ想像するのです。しかしそれはただの空想ではなく、カラダも使いながら想像していきます。完全にイメージすることができなくても、そこに向かうだけで身心は変わります。もちろん自分にとって良い方向へ。
モノを一つに見ようとするときに、「透明」のイメージを使います。透明は色がないから、すべてのものモノはつながってしまいます。ではすべてを「透明」化して終わりかというと、そうではありません。それを現実に応用します。「透明」によって変わった身心をもって日常のモノをあらためて眺めてみると、普段とは違って見えることに気がつきます。目に映るモノものに変わりはありませんが、何かが特別に目立たなくなります。普段の私たちは興味のあるものだけを見ているのに対して、(完全ではありませんが)モノものが平等に見えて来るのです。そして意識も変わります。いつも気になっているようなことが、そうでもなくなります。
執着してしまうことをそうしないようにすることは、なかなか大変なことです。考えないようにすればすれほど考えてしまうことはよくあります。しかし上記のようにイメージを使うと、思いのほか簡単に執着から離れることができるのです。