気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「必要」があった

2024-09-21 07:16:04 | 透明を観る
 私が老荘思想や禅、野口整体や気功に興味を持ったのは、単に知的好奇心を満たすためではなくて、当時ははっきりとは分かりませんでしたが「必要」があったからです。それを知り、自分のものにすることで、「何か」を変えようと思ったのです。
「何か」というのは、子供のときから抱えていた問題・悩みのようなもの、それから将来に対する不安のようなもの。これらは私にとってとても大きくて、趣味に没頭するくらいのことで簡単に解消したり、解決できるものではありませんでした。たとえ誰かに相談したとしても(気は楽になるかもしれないけれど)、問題が大きく変わることはなかったでしょう。私の問題は、自身の問題であり、自分の裡から変わる以外に方法がなかったのです。

 上記の思想や野口整体のような身体技法を身につけることで、身心は少しづつ変わりました。現在は、それらを総括して作った健康法『透明を観る』をしています。


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透明は「ある」

2024-09-14 06:49:23 | 透明を観る
 私は普段、身心を整えるために「透明を観よう」としています。「透明」というと、色がないから何も無いと考えがちですが、そうではありません。眼には見えませんが「透明」はあるのです。「透明色」がついていると考えると少し分かりやすくなります。
 思考するとき、それが「ある」と考えるのと「ない」と考えるのとでは、自分の姿勢が変わってきます。「ない」と考えるよりも「ある」と考えた方が、身心が変わります(より自分らしくなります)。人は「ある」ものに向かうからです。ただ歩くのではなく「ある」ものに向かって歩きます(「ある」ものは、具体的なものだとは限りませんが)。

 あるかないかを、常識や科学などで測るのではなく、どう考えると身心がよくなるのかという基準で測る。あるかないかの証明よりも大事なことは、今ここにある身心の状態です。



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差別心を少しづつ減らす

2024-09-08 07:28:52 | 透明を観る
 私たちは言葉(意味)によって万事を分けています。そしてその「分ける」ことによって差別が生まれます。差別と言っても「人種差別」や「性差別」のような大きなものだけではなく、日常には小さな差別もあります。地位や肩書きで人を分けてみたり、技術・能力の優劣で分けてみたり、美醜で分けたり、利害で分けたりとほとんど無意識にしています。それが単に言葉という記号上の形式的なもので、全くココロ(感情)が伴わないのならば良いのですが、そういうわけにはいきません。必ずココロでも分けてしまいます。本来平等であるはずの人を上下に分けてしまうのです。この程度のことはたいしたことではないと思われる人もいるでしょう。しかし小さな差別が大きな差別になる可能性はいつでもあります。
 
 言葉を使えば、各個人(物)の間には違いができるので、このような差別は当然なのかも知れません。裏を返せば、言葉を使わなければ(言葉が無ければ)、差別は生じません。
 「透明を観る(身心調整法)」では、物事を「透明」にしていきます。結果として物ものがつながり、言葉の生じる(言葉で分ける)前の状態を感じることができます(個人差があります)。そのとき、他者を差別する意識が限りなく少なくなります。
 
 身の回りの差別がそれほど甚だしくなければ、なんとなく無難に過ごせるかも知れません。ヘイトスピーチやsnsなどでの他者への誹謗中傷などは大きな問題ですが、先に言ったように小さな差別は至るところにあります。しかしながら差別しないようにしたり、他人にそれを求めることは大変難しいことです。「透明を観る」のような方法で、自然に差別心を少なくすることもできます。はじめは練習中だけできますが、次第に少しづつ日常が変わってきます。

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