気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

手の触れ方

2023-03-12 11:05:44 | 野口整体

 野口整体で学んだことの一つに、「手の触れ方」があります。整体操法の練習などで相手の背中に手を当てるときに、本当に丁寧に手を当てるのです。先生や先輩が私に触れるときの、その手の感じを今でも憶えています。

 手を当てるということは、見た目(あるいは物理的)には、相手の吐く息に合わせて、力を抜いてゆっくりと触れるだけですが、それ以上に大事なことは、気がそこにあるということです。それは目標のために一生懸命にやるということとは違います。むしろ目標のような期待や感情を極力排して、静かな自分らしい状態で行うことです。

 気が散っている人にからだを触れられると、とても不快な感じを受けます。普段は言葉を丁寧に話す人でも、手の触れ方が雑なことがあります。それは技術が下手なのではなく、気がそこに無いからです。本来気は誰にでもあるものですが、発揮できないことはあります。からだを物として見たり、意識が他のところに行ったりしていれば、気を十分に使うことはできません。気は物理的な面もありますが、意識の中に気を想定することができるかどうかが大事です。

 もう20年以上も前になりますが、先輩のところに勉強に行ったときに、ある女性が練習の手伝いに来てくれました。私はまだ野口整体を始めていなかったので、手の当て方などもわからなかったのですが、その人は快く私の手を受けてくれました。先輩に比べて私の手には、不安や未熟さが現れていたはずですが、その人はただ良かったですと言ってくれました。それは何も持っていない私の、わずかな気だけを感じて言ってくれた言葉だったのです。

 

 

 


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「愉気法」の前にあるもの

2022-11-12 09:38:04 | 野口整体
 野口整体には「愉気法」と「活元運動」という基本があります。それらは整体操法などの技術を学ぶ前に習えば良いのではなく、整体操法の技術の中に常に入っているものです。ですから「愉気法」が前提とされない整体操法はあり得ないということです。
 では「愉気法」と「活元運動」が一番最初の基本かというとそうではありません。野口整体の理念(=野口晴哉氏の思想)を理解することが、先にあります。生命・自然というからだを信頼して生きていくという思想です。ここでいう「理解」というのは、知識として覚えることではなく、思想を自分のものにして、自分の言葉で語れるようになることです。
 
 25年ほど前に野口整体を学び始めたとき、私は「愉気法」や「活元運動」よりも、具体的な技術「整体操法」を身につけたくて、指導者のところへ通いました。野口晴哉氏の書かれた本を読んでも、技術的なところだけをピックアップして覚えようとしていました。しかしそれは間違いでした。上述したように技術の前提になるのは「愉気法」や「活元運動」であり、その前には野口整体の思想があることがわかったからです。

 野口整体の思想といっても、思想自体はそんなに特殊なものではありません。たとえば臨済の「まず自分を信じること」や、老子の「何も為さないが為らないものはない」などの思想と共通しているところが多々あります。野口整体(野口晴哉氏)が特別なのは、それらの思想を身心の上に当てはめたことです。生活の中で実践するために作られたということです。

 「ちょっとカラダの調子が悪いから活元運動をしよう」あるいは「愉気をしてもらいたいな」というのも悪くありませんが、根本である野口晴哉氏の思想を失っては、事は成りません。
 

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コロナ禍における野口晴哉氏の思想

2020-06-19 08:15:04 | 野口整体
 野口整体の根本思想は、生命への絶対の信頼である。西洋的な医療や薬に頼らず自分の身心を信じて行く思想は、現実的ではないかも知れないが力強く生きる力になる。コロナ禍を生きるヒントになるのではないかと思い、創始者・野口晴哉氏の言葉を紹介したい。昭和19年頃に、病菌に対する人のとるべき対応を語ったもの(「野口晴哉著作全集2・302~305頁参照)に、私見を加えて解説する。

人間より病菌を強しと言ひ、生命より医術を重んじ、生きてゐることをいよいよ外物のせゐにしてしまふ。

野口整体では生命が直に現れた「からだ」を絶対的に信頼する。多くの人はからだを信じられないから医術を重んじ、他のものを頼ってしまうのである。この考えは臨済の「(悟りを)外に求めるなかれ(仏は自分のこころだ)」に共通する。

食い物に食われ~薬に治されてゐるが如く教え込んで~ただでさえ弱い人間の気持を脅かし、その上いろいろの可し可からずを並べ立てて、その守り切れぬ不安につき落して、頼りたい気持をそそることは、考えようによっては罪なことである。

健康に良さそうな食品を追い求め、健康なのは薬のおかげだと思い込む。食べ物や薬が悪いわけではなく、からだへの信頼を持たずに食や薬に頼るのは如何なものかと言っているのである。

それだけでなく人間の敵をいよいよ探し出して多くし、その害力を丁寧に説明するから、いよいよ病人は怯えて小さくなり~護るものや補ふものにしがみつく。

マスコミの報道や政府の発表を聞くほど、人はますます怯えてしまうものだ。

病菌と人間が両立し得ないものと決めてしまふより他に考えやうはなかったのだろうか。眼に見えないだけに、勝たねばならぬやうなつもりになったら、一瞬間も油断なく用心しても尚不安だ。人間はいよいよ焦々して、その息をかき乱さないではゐられない。

かうして病菌を憎んで生きてゐることは単に忙しいだけでなく、吾々の心の静けさを破り、殻を着けるもとだ。

人間の臆病な考えを捨てさえすれば、病菌も亦人間の友人である。病菌を人間の敵にしてしまったのは、人間の卑屈な気持だ。彼を敵にし憎むのは止さう。

相手が病菌だからといって、人間の愛情をその一瞬でも失って生きてゐるということは惜しい。病菌だって生きものだから、愛情を寄せられぬことはあるまい。人間の心ってそんな狭いものではない筈だ。しかしそれがどうしても厭なら、病菌などで自分の息を乱してゐてはつまらない、とでも自分に言ってきかせて、静かな心を保つがよい。

ここで野口氏は価値の転換を図る(とても荘子的だ!)。病菌は憎み排除するものではなく、共存すべきものだと言っている(善悪の基準で判断していない。経済を考慮し、仕方なく共存しているのとは次元が違う)。なぜならば息や心が乱れることは不健康なことだからである。「殻を着ける」は、心が静かであればそれに従って生きて行けばよいが、心が乱れれば頼れなくなり、他の何か(殻)を求めてしまう、の意味だろう。

本当の健康法とは息を乱さないことだ

養生といふことから見れば、悲しいことも嬉しいことも、泣くも笑ふも、激しいことはよくない。怒るのでも、憂ふるのでも、息の静けさを破るほどではいけない。

お互いに余り鼻息を荒くしたり、声をはずませたり、吐息したりしないで、いつも深い静かな息をし続けられる心に生きたいものである。

野口氏の考える整体(理想の身心の状態)は、心が静かで息が乱れていない状態である。それを乱すものは喜怒哀楽でけではなく、認識もまた関係がある。病菌を「怖れる」「憎む」「排除」という意識が強ければ、息は乱れるだろう。先ずは一旦受け入れて、息が落ち着いた後、それを乱さないように思考し、行動することだ。

 現在、コロナ禍に対して制度・環境・衛生などあらゆる方面で対策が取られているが、個人はただそれに従って行くだけでよいのだろうか。たとえ表面上は大きな流れに従っているようでも、個人としての自分を保つことは何より大事なことである。人は国を変えることができなくても、自分を作ることはできる。自分を整え、身心の主宰者になることだ。





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「天心」と「道(タオ)」

2019-10-12 09:57:21 | 野口整体
 野口整体では「天心」が大事だという。「活元運動」も「愉気法」も「天心」がなくてはできない。「天心」とは無欲で生まれたてのような心のことである。野口整体をはじめた頃、擦れている自分が「天心」になど成れるのだろうかと思っていた。しかしその後「天心」を老荘思想の「道(タオ)」や「渾沌」に置き換えてみると分かりやすくなった。道(タオ)は、善だけでなく悪もあり、誤りも災いもすべてある。大人がいくら擦れていようと「天心」もあるわけで、その「天心」を引き出すことが大事なのである。「活元運動」や「愉気法」をキチンとすることで、「天心」に近づくこともできるだろうが、私には「立つ」練習の方があっている。

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野口整体という生き方

2018-01-26 13:57:26 | 野口整体
 野口整体(野口晴哉氏)の本で、最初に読んだのが「健康生活の原理」と「整体法の基礎」。からだ・健康に対する考え方が独特で面白いなと興味を思った。それより前に老荘思想を学んでいたことも興味をひかれたことと関係があるだろう(野口氏も荘子や禅の本を読んでいた)。
 20~30代は悩み多き時だった。自分のやりたいことが分からず、どう生きたらいいのか分からず、いつも道を探していた。そんな時に野口氏の思想に出会った。氏はよくある啓発本のようにポジティブシンキングを説くわけでもなく、堅苦しい道徳を勧めるのでもなく、絶妙な人間観察に依拠した整体(生き方)を提示して見せたのである。それは具体的な「一つの道」ではなくて、自分の生きる姿勢を問うものである。キチンと自分(からだとココロ)に向き合うことである。自身の欲求に気づき、それに従って生きていくことである。
 それから20年経ち、いまだにその作業は続いている。一つの道があってもなくても、今の「生」を充実させていくことが大事なことなのである。


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