気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

欲窮千里目 更上一層楼

2014-08-28 14:48:14 | 中国

 留学する前に通っていた中国語学校の、院長から頂いた氏の著作と唐詩のサイン。


Dsc_2562


「千里の目(ながめ)を窮(きわ)めんと欲し、更に上る一層の楼」・・・遠くを眺めようとして 更に上に登る。

 当時は仕事に追われて漢詩を味わう余裕がなかったが、今はココロが動かされる。高い処へ登るのは、あくまでも「自分」である。自分の夢や希望を叶えるのに、他人や道具に頼ることの多い昨今、エレベーターではなく「自分の足」で登ろうとする。

 下のような詩があったとしても面白くないのは、「自分の力」で何かをしようとするのではなく、安易に「他の力」に頼っているからである。

 欲治於百病  更找一名医・・・諸々の病を治そうとして 更に医者をさがす

 欲至於仙境  更上一輌車・・・ユートピアに行きたくて 更に車に乗る

 

 まだこの方がいいだろうか?

欲知尽寿命  更飲一杯酒・・・寿命の尽きしことを知りたくて 更に飲む一杯の酒

 これではどうだろう?

既知尽寿命  更写一篇詩・・・既に寿命の尽きることを知り 更に書く一篇の詩


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「百子全書」

2014-08-22 10:17:02 | 中国

 北京体育学院(現大学)では、太極拳だけでなく「古代漢語」をマンツーマンで習った。女性のX老師は、無知な私に対して、やさしく、丁寧に教えてくれた。お陰で私は、古典だけでなく、中国古代思想(老子・荘子・孔子)にも興味を持つことになったのである。X老師がいなければ、私の視野はもっと狭いものになっていただろう。

 当時(1992年頃)、北京の「和平門」近くにある「瑠璃廠」で購入した「百子全書(全8巻…諸子百家の書)」。

20140821_2

ほとんど読まない(難しくて読めない)まま、引越先を転々として、今に至っている。先日、片づけをして、段ボール箱5箱分の本を売りに出し、売れない本は処分したのだが、その時にこの「百子全書」をあやうく処分しそうになり、自らの行動を反省した。

 本に風を通した後、ぱらぱらページをめくっていると、下のような文章が目についた。

20140821_1

人之爲德,其猶虚器歟。器虚則物注。滿則止焉。故君子常虚其心志。恭其容貌。不以逸群之才。加乎衆人之上。視彼猶賢。自視猶不足也。故人願告之而不倦。易曰。君子以虚受人。


(下は勝手な訳・・・全く自信なし。X老師に添削してもらいたい)

人が徳を為すというのは、空の器になるようなものではないか。器を空っぽにすれば物を注ぐことができるが、満ちてしまえば止まるだけである。故に君子は常にその心を空っぽにして、容貌も恭しくしておくのである。優れた才能を持って人の上に立つことなく、人から賢く見られても、自分では満足しない。故に(こういう人柄であるから)人々は、お願い事をひっきりなしに持ってくるのである。「易」に「君子は虚を以って人を受け入れる」とある。


たった2行であるが、何とも深いことが書かれているではないか。「百子全書」を一生懸命読むのは大変だが、たまには「ぱらぱら」しよう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楼蘭の沙

2014-08-14 15:32:43 | 中国

 片づけをしていたら、以前頂いた「楼蘭の沙(土)」が出て来た。

Dsc_2554

 楼蘭はかつてタクラマカン沙漠に存在した国家である。王国として繁栄し、人々はロプノールの湖畔で豊かな生活をしていたのかも知れない。

 今では、湖も人も沙に飲まれて、音も無くただ風が吹いているだけだ。

Dsc_2553

 説明書きには「楼蘭城壁の土」と書いてある。触ってみると、沙が崩れて、指が黄色になった。大小様々な形があり、貝の破片のようなものもある。

 築かれた城も、築いた人も、貴賤も皆一色に沙となっている。

 

   この国が滅びて数千年後、沙にならないものが残るだろう。

 この「楼蘭の沙」のように、等しく潔くはないものが・・・


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛行機の中で出会い、別れる

2014-08-09 09:08:29 | 

 20代の頃、北京ー成田、飛行機の中。 

 隣に座った女性と話をすることになったのは、その人の手荷物を上の棚に入れてあげたことが、切っ掛けだっただろうか。

 その女性は、大学の卒業旅行で中国を訪ね、帰国後は、音楽の教師になるとのことだった。私がヘッドフォンをしていると、「何を聴いているのですか」と訊かれたので、「自分の歌です」と答えた。カセットテープには、ギターで弾き語りした自作の歌(12曲くらい)が入っていた。聴いてみたいと言うので、手渡すと、何とA面・B面のすべてを聴いたのだ。嬉しさや恥ずかしさもあったが、素人の、上手くもない歌をよく46分?60分?も聴けたものだと驚いた。
 「ハーモニカの音程がちょっとずれています」と言い、それ以外の感想を言わなかったことは、何かを意味しているのだろうか。

 自作の歌を聴いてもらうということは、自分の素(すべて)を晒しているようなものである。晒す方も、晒された方も、深くそれを感じざるを得ない。私と彼女は、交わした言葉の数は多くはない。しかしこの飛行機の限られた時間と空間の中で、もっとも深い付き合いをしてしまったのである。私は「見せて」しまい、彼女は「見せられて」しまったのだ。

 今の時代なら、メールアドレスの交換くらいのことが有ったかも知れない。しかし何もなかったことが返って、私たちの関係を「深いまま」にしている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「立つ」ブログの紹介

2014-08-01 09:50:03 | 「立つ」健康法

 「立つ」ことにこだわったホームページを作成中。ブログだけできたので、先に紹介します。写真を載せてあるので、分かりやすいかと思います。ご関心のある方は、ご覧ください。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする