気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

返らない年の終りに

2016-12-30 19:47:42 | 
 今年も拙文を読んで頂き、有難うございました。
 発信しているのは「立つ」健康法、野口整体、太極拳、渓流釣り、音楽、中国などです。一般論ではなく、生の体験を通した全く個人的な感想を述べています。反論や一笑される処も多いかと思いますが、皆さまの健康や喜びに、わずかでも影響があるのであれば、このブログも意味を持ちます。
 来年は、この仕事を始めて20年目になりますが、一番大きな変化の時になります。表面的には分からないかも知れませんが、中では大きく変わっていきます。何より私がそれを楽しみにしています。
 どうぞよろしくお願いします。

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沙漠の少年

2016-12-22 10:55:32 | 中国
それは何度目の旅だっただろうか…シルクロードに向かう汽車に乗っていた。窓際の補助席に座り、沙漠をぼんやりと眺めていた。恐らく数千年前とさほど変わらない凸凹の荒野が、もう十数時間も流れている。
少年が一人視界に入ったが、依然として私は絵を構成する風景の一つとしてしか捉えていなかった。冬用のジャンバーに膨らんだ身体がスローモーションのように動いた次の瞬間、私の顔に「土の塊」がぶつかった?!実際には窓があったから、直接は当たらなかったものの、ガラスを通して衝撃は伝わった。絵の中から本物が飛び出したのだ。

私のアタマは混乱した。何故、汽車に向かって「土の塊」を投げたのか…
何故こんな処に一人でいるんだ…
家は近くにあるのだろうか。何十分も歩いてきたのか…


子どもがよく川や池に小石を投げるように遊んでいたのではない。
あの頃、線路に並行して「白い線」があった。弁当の発泡スチロールのケースを、窓から投げ捨てたものが「白い線」に成っていた。
彼は自分の住む村が汚されることに対して、憤慨していたのだ。汽車に対する憧れもあったのかもしれない。

自分が小さかった頃、個人的な怒り以外に怒りはなかった。比べてこの少年の怒りのスケールの大きさよ!自分の何万倍もある汽車に一人で立ち向かう勇気は何処から出たのだろう。沙漠もまた、彼の味方だったに違いない。




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からだは正直

2016-12-15 16:02:00 | 健康

からだはなんて正直なんだろう
イヤなことがあれば必ずそれを現わす
表情は取り繕えば多少偽れるが
腹や背中は誤魔化せない
硬くなったり 偏ったりする

そういうからだの異常に気が付かないのは
からだの様子を観ようとしないからだ
日々感じる姿勢を続けていけば
感受性は高まるものだ

何故からだ上に現れるのか
本人に気づかせるためだ
その時どういう感情を持ったのか
その感情が自分にとってはキツカッタことを知るために

なんて素晴らしいんだ からだ
いつでも自分に寄り添い 感情をいちいちチェックして
その都度正確な結果を知らせてくれる

からだは意識よりも信じるに値する




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一太極拳指導者の独り言

2016-12-09 16:33:27 | 太極拳
 太極拳を指導していて、生徒からよく言われること幾つかある。
①「先生と一緒にやるとできます」
 それを「できる」とは言わない。誰もいない処で一人でできて、はじめて「できる」と言える。
②「型(套路)を途中からではなく、最初からならできます」
 一つのひとつの動作がまとまったのが型なのだから、単発で練習しても良いし、何処から始めてもいい。
③「自分で練習しようとしても動作を思い出せません」
  練習をしない典型的な言い訳の一つ。丹田の上下運動だけでも「開合(陳式太極拳の基本)」の練習になる。「家が狭い」と言う人が
 いるが、一畳あれば十分練習できる。
④「何を質問してよいのか、わかりません」
  何も感じず、考えずに生きているということ。太極拳についての知識など何も持っていなくても、質問などはいくらでも湧いて来るも
 のだ(考えるのではなく、湧いて来るのだ!)。
⑤「(太極拳は)難しい」
 この言葉を聞くとがっかりする。最後に陳式太極拳を教えてくれた先生は、一日少なくても9時間は武術の練習をしていた。私は気功
 の授業などを入れても6時間程度だった。先生ほど練習をしない者がどうして「難しい」などと言えるのか。
 眼の前のことをしていれば、難しいかどうかなんて考えもしないものだ。
 

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ノートを捨てる

2016-12-01 20:32:41 | 
 20代の頃から、思ったことなどを時々ノートに書いてきた。40冊以上はあるのだろうか。これらを捨てることにした。見返すことはないし、思い出としてとっておくという気持もない。捨てる前にパラパラめくってみると、友人と話した記述があり、内容などずいぶん忘れていることに気がつく。本の中から気に入った文章を書き写している処も結構あるが、これも内容のほとんどを忘れている。自分の実になることなんて、100冊読んでもわずかだろう。ノートの意味は書くことにあった。書くことでアタマ(考えていること)を整理する。書いてしまえば後は用はない。少なくとも私にとっては。

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