気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

師は弾いても語らず Gちゃん⑩

2015-11-26 14:43:36 | Gちゃん(友人・ギターの師匠)
 ギターの師匠であるGちゃんが、北京留学時代の友と30年ぶりに再結成、ライヴを演るというので聴きに行った。当時二人は黒人とバンドを組んで、北京のホテルなどで演奏していたという。
 驚いたことにライヴの開始時間はこちらに合わせてくれるとのこと、夜の教室の後に駆けつけた。「イマジン」から始まり、ボブ・マリーをたっぷり聴かせ、RCサクセションの「ラプソディー」、「甲州街道はもう秋なのさ」「多摩蘭坂」、最後は自作の「走る」へ。気持ちのいいライヴだった。
 Gちゃん曰く「アフリカ音楽は基本のリズムの中、各自がアドリブを出してゆく。ギターもベースも打楽器で、バンドは皆でリズムを出す(抜粋)」。ドラムだけがリズムを作っているのではないのだ。呼吸の長さや話し方、歩き方は人によって違う。それぞれ異なるリズムがあるわけで、楽器をもってそれを合わせていくのが、音楽なのかも知れない。「合わせよう」という思いは妥協ではなく、新たに「二人でのリズム」を構築する喜びである。
 サザンオールスターズの「♫互いにギター鳴らすだけで 分かり合えてた奴もいたよ(YaYa~あの時を忘れない)」を思い出した。二人が思い出したのは、30年前のあの「感覚」だったに違いない。
 

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スポーツクラブでの太極拳

2015-11-19 12:49:46 | 太極拳
 週二回指導をしているスポーツクラブが近くに移転した。新しく会員になった人が、気功と太極拳のクラスにも多く参加したが、二日目には半減した。彼らはちょっと試してみたかっただけなのか、或は期待していたものと違っていたのだろうか。
 エアロビクスダンスをはじめ、からだを激しく動かすプログラムは、適当に汗をかいて、疲労もあるから「運動した感」を持ちやすいだろう。しかし太極拳は安易な快感を求める種目ではない。からだのバランスを整えることから始まり、力をどう全身に伝えていくのかという「からだの使い方」を学ぶ。バランスが悪いままに動いては、身につくものも身につかないからだ。太極拳は型(外形)だけを追いかける「単なる体操」ではないのだ。からだの感覚を磨き、それを基準に自ら整えていくものである。
 私はこういう考えを持ち指導をしているが、もし今後スポーツクラブの方から、大衆向けの内容(型だけをどんどんやって欲しい等)に改めることを言われたら、辞めることにためらいはない。

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雑念の扱い方

2015-11-12 16:01:45 | 「立つ」健康法
 雑念は、その内容の悪いものばかりを言うのではなく、良いことでも雑念である。過去の悔恨、明日の心配などは内容の悪い方の雑念だが、スポーツや旅行なども雑念である。
 そもそも雑念とは何か。現場にふさわしくないものが雑念である。授業を受けながら野球の事を考えたり、仕事をしながらデートの事を考えていれば雑念である。
 野口整体の愉気法(相手の背中などに手を当てる)において、雑念とは何だ。意識的なことすべてが雑念である。「キチンと手を当てよう」、「相手のために手を当てよう」、「呼吸に合わせよう」…ではまったく何を思ってもいけないのか。そんなことはない、自然に湧き上がってくる思いは仕方がないのだ。意識的であろうと、無意識的であろうと雑念があることには変わりがないと思うかも知れないが、全く違う。からだが違う。後者の方は、からだのバランスが崩れないのだ。
 では、そのような意識の状態をどうやって作るのか。私の場合は「ただ立つ」練習をしている。眼に見えるものを一つ一つ意識していくと、自分と周りの物との一体感が得られるが、だからと言って自分を失うわけでもなく、風景の一つ一つはそれぞれある。雑念(のような意識)も、その(一体感のような)中にあるのなら、からだのバランスが崩れるのではないのだから、取りたてて排除する必要などないのである。

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感情は薄くても、距離感は近い

2015-11-08 09:44:30 | 「立つ」健康法
 普段、他人と自分は明確に分かれている。意識の上でも、身体の上でも。他人と自分を分けているのは意識であるから、意識が変わればそれも変わる。
 たとえば、数人で一緒に「立つ練習」をする時に、各人が眼に観えるものをそのままに受け取るようにイメージをしてみる。部屋の中の物を一つ一つ意識していく。黒板、机、椅子、換気扇、窓、カーテン…そして人も。人も他のものと同じレベルで位置づける(特別扱いしない)。そうすると、日常他人に対して持っている感じ(思い)が薄くなる。いつも人と付き合う時には、社会的立場や好き嫌いなどを考えているものだが「立つ練習」中は、人は風景の一つになっているから特別な感情が湧かず、観え方が違うのである。感情は薄くても距離感は近く感じるのは、人の思惑を通さないことで、自他の境が曖昧になるからかも知れない。
 いつもこのような意識を持って人と付き合うことはできないが、こういう観方をからだをもって練習していくことは大事なことではなかろうか。

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