野口整体では、立った姿勢で背中の観察をする。背骨に沿って指を滑らせると、指が止まる処がある。指が止まるのは指をそこに当てたいという本能であり、異常があるからではない(結果的にそこが異常のある処であることも多い)。
一般的には、立式での観察は短い時間で終わらせて、後に横になってもらってから、ゆっくり操法をする。しかし観察をしているときに、そのまま手を当て続けたい(愉気をしたい)と思うことがある。そういうときには「手の欲求」を尊重したい。
愉気は、その時にそうせざるを得ない欲求である。本能と言ってもいい。相手の為でも金のためでもない。他の本能がそうであるように、いつでも誰に対してもそうなるとは限らない。野口整体は、すべての技術の根本に愉気法があるという。活元運動も、整体操法も観察も愉気法の延長であり、操法者自身のからだもまた、愉気によって満たされていなければならない。こういう本能に依拠したものなのだから、時間やマニュアルに囚われない発想が求められる。手を当てる時間も、その時の相手のからだによって変わるものだ。基準になるのはあくまでも本能で、指(手)を当てていることが自然に感じられるうちは、時間に関係なく続ければ良いわけで、こちらの(疲れたなどの)理由で終えてはならないことは言うまでもない。
立式での愉気(整体)は、あまりポピュラーではないかも知れないが、臥式(うつ伏せ)よりもより実用向きの効果を得られることもある。比べてみれば確かに臥式は、着地面積が広い分脱力しやすく、それによって操法での変化が起こりやすいという利点はある。しかし立式でも、脱力ができるレベルの人ならば、その方がより日常の姿勢に近い分、その身体バランスを即実用に活かせるのである。
一般的には、立式での観察は短い時間で終わらせて、後に横になってもらってから、ゆっくり操法をする。しかし観察をしているときに、そのまま手を当て続けたい(愉気をしたい)と思うことがある。そういうときには「手の欲求」を尊重したい。
愉気は、その時にそうせざるを得ない欲求である。本能と言ってもいい。相手の為でも金のためでもない。他の本能がそうであるように、いつでも誰に対してもそうなるとは限らない。野口整体は、すべての技術の根本に愉気法があるという。活元運動も、整体操法も観察も愉気法の延長であり、操法者自身のからだもまた、愉気によって満たされていなければならない。こういう本能に依拠したものなのだから、時間やマニュアルに囚われない発想が求められる。手を当てる時間も、その時の相手のからだによって変わるものだ。基準になるのはあくまでも本能で、指(手)を当てていることが自然に感じられるうちは、時間に関係なく続ければ良いわけで、こちらの(疲れたなどの)理由で終えてはならないことは言うまでもない。
立式での愉気(整体)は、あまりポピュラーではないかも知れないが、臥式(うつ伏せ)よりもより実用向きの効果を得られることもある。比べてみれば確かに臥式は、着地面積が広い分脱力しやすく、それによって操法での変化が起こりやすいという利点はある。しかし立式でも、脱力ができるレベルの人ならば、その方がより日常の姿勢に近い分、その身体バランスを即実用に活かせるのである。