気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

身体から観た怒り

2016-04-29 20:57:09 | 「立つ」健康法
 中国語で怒ることを「生気(ShengQi)」或は「発火(FaHuo)」という。確かに怒ることは気を生じ、火を発っする感じがする。己の気が変化するのか、どこからか気がやって来るのか分からないが、新たな状態になる。
 怒るにはエネルギーが要る。「烈火のごとく怒る」のにも、相当エネルギーを燃やさなければならない。男女間の嫉妬や恨みもエネルギーがなければ持続しない。しかし怒りを原動力とする行動は、本当の行動力ではない。
 漢方では「怒傷肝(怒りは肝臓に悪い)」という。事実かどうかは分からないが、身体に影響があるのは自覚できる。怒るということは、緊張することである。筋肉を緊張させるから表情が強張り、声が震えるのである。緊張は身心の非常事態であり(時にそれは必要なのだが)、できればリラックスして暮らしたいと思うのが自然である。
 怒ることの是非は、身体に聞いてみればいい。怒ると、キチンと立てないのだから。

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整体をしていた頃

2016-04-24 10:22:22 | 
 15年くらい前、まだ整体をしていた頃の話。おそらく十歳以上年長だった彼は、取りたてて何処かが悪いわけではなく、疲れやすいとか力が入らないなどの理由で来ていた。毎回整体が終わると、「明らかに身体が変わりました」と喜ばれた。
 当時彼は「池波正太郎の鬼平犯科帳が面白くてね」と言っていたが、実は私も最近になって「鬼平犯科帳」を楽しんでいる(19巻まで読了)。もう一つ憶えているのは「人は死んだらゴミになる」という言葉。もし彼が虚無であったなら、わざわざ整体になど来ないはずだ。人は身体だけ観れば「生もの」である。「ゴミ」と言ったのは、人と周りの自然は変わらないと言いたかったのかも知れない。飽くなき欲を追求する人間や輪廻思想に対する皮肉だったのだろうか。

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野口整体を習っていた頃3

2016-04-17 08:27:06 | 「立つ」健康法

「白石君には構えがあるね」とある時、先生に言われた。
確かにそうだと思った。ここで言う構えとは、武道や野球のバッターが取る外形(姿勢)のことではなく、精神的なものだ。人と対峙するときに初めから準備する気持のことである。
 そう言われても、私は構えを無くそうとは思わなかった。構えの不自然さを感じながらも、構えは自身そのものでもあり、たとえ無くそうと思っても出来なかっただろう。構えは意識しても外れるものではなく、一定のレベルに至らなければ外れないものだからだ。たとえば太極拳は、型を数限りなく繰り返すと、型を考えなくても動けるようになる。重心や腕の高さ、方向などを自由に変えるという応用も出来るようになる。
 今でも私の構えが外れないのは、レベルが低いからだろう。しかしこの構えを外すには、単に何かを繰り返すだけではなく、発想(価値)の転換のようなものが必要だ。
 「ただ立つ」練習を通して、どういう意識が身体に良いのか(自然なのか)を考えている。

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信楽の色と重み

2016-04-08 16:12:26 | 
 (先ほどの投稿に写真を載せるのを忘れたので、もう一度。)
 この碗(鉢?)は片口で、内側には紫がかった黒、底にはガラス質の緑が深い淵を思わせる。所々墨のような黒が光を放っている。
 両手を添えて持つと、丹田に心地よい圧がかかる。



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信楽焼と太極拳

2016-04-08 12:58:34 | 
 昨日、信楽焼を銀座まで観に行ってきた。小学校時代の恩師の個展である。窯焚きにも少し参加したので楽しみにしていた。大きな花器からぐい呑みまで大小あるが、どれも強く主張をしていないのに静かな「存在感」がある。
 恩師は俳句を趣味にして、毎日フェイスブックに書いていたが、最近になって「やめたんだ」と言う。理由は「犬の散歩をしているときでも、俳句の眼で何でも観てしまうから…同人誌に参加していると、少しでも良い句を投稿しようとして、いやらしくなって来ちゃうんだ」と作為的になってしまう自分にブレーキをかけた。
 私が表演(競技)太極拳に興味が持てないのも、同じような理由かも知れない。全国大会などを見る(招待券をもらうので、ほぼ毎年ちょっとだけ見に行く)と、自分を審判にアピールするために太極拳をしているようだ。目的が成績(得点)にあるのならば、それ以上の太極拳になることはない。同じ理由で目的が実践(具体的な戦い)にあるのならば、それ以上にはならない。もちろん太極拳に求めるものは各人違うわけで、目的に上下があるわけではないのだが。
 私は太極拳を通じて、(人としての)自然な動きを表現したいと思っている。実践の人から見れば、太極拳は実践から発生したものだから、実践こそが本当の太極拳だと言うだろう。それは一理ある。私は自分のしていることが太極拳と言われなくても構わないと思っている。長年やって来て、表現するのに用いやすい形だから、手段として使っている。
 人として一番自然な動きはどのようなものだろう。無目的なものだろうか。しかし人は目的をもって行動する。目的に執着し過ぎると「美」からは離れる。意識(目的)は、からだに反映するからだ。ならば自然であればあるほど「美」だろうか。人為的に「美」を作り出すとき、何処まで意識して良いのだろうか。
 アタマで考えることではなく、からだの感覚で観つけることだ。
 信楽焼の陶器は元は土である。人の手や火の間を通り、最終的には自立する。陶器は自らの足で立っているからこそ美しい。

 

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