気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

カタクリとの邂逅

2021-04-03 09:12:48 | 風景・自然
 今日はもしかしたら会えるのではないかと思っていた。今日会えなければ来年になってしまうだろう。いつもの群生地を訪ねると花が一つもない。機を失した思いで釣行し、ふと見上げた斜面に咲いていた薄紫。水を越えなければならない登山者には見つけるのは難しだろう。流れだけを見ている釣人の眼には入らないだろう。私が来るのを知っていたのだろうか。年に一度会うだけの、淡い関係(笑)。

 納竿して山道を下るとき、いつの間にか小椋佳の「時」という歌を口ずさんでいた。「♪君の好きな色は変わらず 淡い淡い紫でしたね♫」。

 このカタクリに会っただけでここに来た意味がありましたが、岩魚と山女も釣れました(一昨日・4月1日の話です)。




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ミミズを捕まえること

2018-08-25 09:38:23 | 風景・自然
 私は渓流釣りは下手だが、餌のミミズを捕まえるのは結構上手いのではないかと思っている。山道を通るときには、短時間でも数匹捕まえてビニール袋に入れて持ち帰る。
 雨の後はミミズが地表近くに出て来るから捕まえやすいが、晴れの日が続くと地中深く潜るのか、見つけづらくなる。山道を外れて斜面に降りて、落葉の下をシャベルや棒で左右にかき分けるとミミズがいる。1匹だけでいることが多いが、時に2匹でいることもある。大小違うので、カップルではないかと思っている。ミミズにテリトリーがあるのかどうか知らないが、1匹見つけると、次のミミズは50センチ~1メートルくらい離れた処にいることが多い(側溝などにいるミミズはこの限りではなく、腐葉土の中に大量にいることもある)。それから、見つけた時に動きを止めるミミズも多いが、これはイノシシから注意をそらし、身を護る方法なのではなかろうか。
 およそ1時間半くらいで、20~30匹くらい捕まえることができるが、イノシシも日々ミミズを捕食しているので、彼らに先を越されれば、思うように捕ることができない。不思議なのは、その年によって、良く捕れる場所が変わるということ。私は同じ場所では捕らないように(ミミズを減らさないように)、出来るだけ場所を変えていく。初めての場所でミミズを捕まえられた時の喜びは、初めて訪れた沢で岩魚が釣れた時と同質のものである。

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竿をおいて沢に立つ

2014-06-12 20:45:46 | 風景・自然

 午後になって雨がやんだので、高尾山まで散歩に行った。琵琶滝コースには沢に降りられる道がある。水辺に降りた瞬間、「ヒヤツ」とした。心地よい冷気が、谷の間を流れているのだ。そうしようと考えたのでもなく、そこに立った。ただ、立っていた。

 しばらくすると、水音が急に聴こえ出した。透明感のある高音、ボコボコとこもった音、激しい怒りや、淡々とした表情もある。多種多様な音色が至る所から聴こえて来る。一つ一つの音を聴き取り、味わう。

 後になって考えてみれば、石一つあれば水が当たって音がするのは当然である。石や岩は数限りなくある。川の形や、水量、落差、或は木の枝などの障害物によっても音は変化するのだ。

 私は時々沢釣りに行くが、こんな風に沢と向かい合ったことはない。竿を持つということは、目的があるわけで、それは観念となり、沢のほんの一部分しか観ることができなくなる。竿をおき、無目的にその場に立てば、実相をつかむまでは行かないにしても、対象に、より深く近づける・・・ただの散歩がいい。


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山を歩く人、走る人

2014-01-16 16:31:53 | 風景・自然

 「トレイルラン」という山を走る競技がブームになりつつあるという。先月開催された大会(高尾→檜原村)では、近所の裏山がそのコースになり、行列を作って山道を走るランナーたちを、窓から観た。

 駅への往復でよく利用する山道は、道幅が狭くて、急勾配なところが多い。すれ違う時には、どちらかの人が、スペースを見付けて横にズレて、通過を待たなければならない。こういうことは山では普通にあることで、挨拶をするだけでなく、コースの様子を訊いたり、感想などを話すこともある(昨年すれ違った人とは渓流釣りの話を1時間以上もした!)。

 トレイルランの人は、前をゆっくりと歩いている登山者や散歩をしている人を見かけたら、どうするのだろうか。前を歩く人の直前まで走って行って、声を掛け、先に通してもらうのだろうか?

 山には様々な目的を持った人々が訪れる。喧騒な日常を離れ、自然の中に身を置きたい人。自分を取り戻そうとしている人。健康法として登る人。山を制覇するような達成感を味わいたい人。じっくりと鳥や植物の観察をしている人や、絵を書いたり写真を撮ったりする人もいる。山を訪れる人に共通しているのは、自分のペースを大事にしているということだ。自然に呼吸のリズムに合わせ、考えるに相応しい速度で歩いている。街中で道を歩いている時には、自転車や車を少なからず意識しなければならず、多少の緊張があるだろう。山ではそのような心配はいらないから、充分にリラックスできる。

 「山を走りたい」という欲求は、不思議なことではない。私も以前に、ほんの短い距離だが、走っていたことがある(朝の5時頃に舗装された登山道・高尾山1号路)。ただそれが競技となると、変わってくる。競技者の眼に映る山は、もはや山ではなくなり、ただ高低差のあるトラック(コース)になる。競技と自然は本質的には別物である。競技は時間を競うものだが、自然を味わうことは、時間を忘れることである。いわゆる「三昧」とは、対象と自分が一体になることで味わうことのできるもので、時間の介入は許されない。

 山を静かに味わっている人たちの中に「走って行く」ということはどういうことなのだろうか。山に関わるのであれば、そういう想像をすることは大事なことだ。もし私が走るのならば(今はその可能性がないが)、前に人を見つけたら、その人に走っていることを気づかせないようにする。数十メーター手前で走るのを止めて、ゆっくりと歩いて近づく。声を掛けて、先に行かせていただく。しばらく歩いて、その人から見えなくなった頃に再び走り出す。

 沖縄本島北部に「喜如嘉」という静かな村があり、そこに在った貼紙。

2013_186

 

 


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葉は落ちてはいない

2013-11-29 16:08:57 | 風景・自然

20131129  

 窓から裏山を観てみると、木々が紅葉した葉を落としていた。その面白さに惹かれ、暫くそれを眺めていた。枯葉が落ちることを「散る」と表現するが、詩歌に用いられるような物悲しさは、ここには無い。そのダイナミックで優雅な飛行を観れば、葉の一枚一枚の中に生命が宿していることを感じる。彼らは木の枝の先で、飛び立つタイミングを見計らっている。自分の好きな風が来るまでは、じっと待ち続ける。同じ風に乗った葉でも飛び方は一様でない。クルクルと高速回転するもの有り、ゆったりと空気に溶け込むもの有り、いきなり真横に飛び出すものも有り、色々である。

 普通紅葉といえば、木に付いた葉を観賞するのが一般的で、道に積もった葉の上を歩くのも趣がある。しかしハイライトは空中に舞う、その刹那にある。数十年間同じ土地に根を張り、成長し続ける木が唯一、動的に自己を表現できる場処と時間は空中である。花火は上がることで人の技術力を示すが、落葉は下に向かって生命の躍動を現す。地上に落ちた後は、再び長い静寂に帰る。


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